小池正博『水牛の余波』、渡辺隆夫『川柳 魚命魚辞』

今年始めから、二冊の川柳句集を前にしていろいろ考え込んでいる。ただ読んで楽しむのなら、以下に引くように、両句集ともエンターテイメント性にも欠けておらず(むしろエンターテインメント過剰とも言える!)、また句集評を書くにあたっても十二分な秀句を拾い上げることができる。

島二つどちらを姉と呼ぼうかな       小池正博『水牛の余波』

マッチ棒そこは木もなく草もなく

識閾に豆粒ほどの健脚者

黄昏のふくろう パセリほどの軽蔑

東雲の足からませて二艘の舟

リヤ王の真似は天文台でせよ

雨の日は厚物咲が這うてくる

ジュール・ヴェルヌの髭と呼ばれる海老の足

ブリューゲル父が大魚の腹を裂く       渡辺隆夫『川柳 魚命魚辞』

夏は京鱧の骨切るアルバイト

硬直の紡錘体が秋の魚

森敦に月山 吉岡実には湯殿山

ウンコなテポドン便器なニッポン

補聴器が悲鳴を拾う冬の月

イワシは頭ウナギは寝床

ゆる褌の日本列島みえるみえる

こうやって抜き書きした句に感想を加えて句集評としてもよいのだが、いろいろ考え込んでいると最初に書いたのは、これらの句集の評としてはそれで十分ではないという気がするからである。

通常の句集評(歌集や詩集の評でも同様だが)は、評者がとり上げるに値すると考える作品を抜粋して、そこから作者らしさを素描していることが多い。ただし、小池正博『水牛の余波』(邑書林、2011)も、渡辺隆夫『川柳 魚命魚辞』(邑書林、2011)も、総体として強い批評意識を保った句集であり、いわゆる川柳(それをどうイメージするにせよ)の中で作家性を示すところに留まらず、川柳というジャンル、さらに他の文芸、現実のありかたを問い直そうという試みである。これらの句集にはこんな良い川柳句がありますよ、と示すのも一つの行き方だが、ではその「良い」「川柳」とは何か、という問いが同時に浮かびあがってくるはずだ。上に引用した8句ずつだけでも、小池と渡辺それぞれが個性的な表現者であることははっきり伝わると思うが、それを単に作家性として示すことは、句集がもつ力を、ありがちな枠組みに填め込んでしまうのではないか。

印象の大きく異なる2句集である。しかし、川柳ジャンルの特性を問いながら、それを独自性にまで鍛え上げることで、言葉や現実を捉える一つの批評的視座を総体として示し得ているということでは共通していると思われる。それを展開してしめすのは相当に厄介なことだが、とりあえず個々の句集について表現上の特質を検討することで、自分なりに明示可能なものとしてみたい。

小池正博『水牛の余波』の特徴は、まずは引用、引喩(アリュージョン)にあると考えられる。こう書くと、教養的な、ブキッシュな側面だけを強調しているように聞こえるが、小池の句では歴史、文学、哲学といったハイカルチャーで文献的な知識だけではなく、日常的な語彙さえ、一種の引用として機能しているように見える。情報とは通常ジャンルやカテゴリー、種々の文脈によって区分されているものであるが、『水牛の余波』の頁に並べられた句を読んでいくと、すべての事象や語彙がフラットに、等分の重み(あるいは軽み)をもって表れてくるのに気付くのである。

おそらく小池の句がある種の読者にとって「難解」に映るのは、この言葉のフラットさをどう捉えてよいのか分からないからだろう。特に近現代川柳の読みにおいては、ある事象(語句)に対する(作者のものと想定される)思い入れが読解の起点であり終点であることが多いように思える。そうした視点から小池の句に作者の思い入れを読み込もうとしても、結局は読者の好みにあった句を選び出して、とりあえず納得する以上の読みは出来ないだろう。そのように句の裏側に発見したと感じた思い入れは実は読者自身のものでしかない。『水牛の余波』を読みとおすにはそれとはまったく別の構えが必要である。

鴉声だね美声だね火星だね        小池正博

逆引きのいさかい順接のトナカイ

ブラザー日本酒シスター焼酎

並列式の構成の三句を並べてみた。これらの句は「これらの組合せから答えを探しなさい」という暗号ではない。一句目で言えば、「鴉声」「美声」「火星」は「セイ」という語尾の音によって、しかも「~だね」という日常的な文末表現によって結びつけられながら、一つの背景の意味などを決して生み出さないように並べられている。この句の内容をあえて言うならば、「鴉声」「美声」「火星」という三つの言葉がそれぞれの意味内容や文脈・背景を保持したままで、お互いに干渉し合う楽しみ、であろう。「ブラザー日本酒シスター焼酎」も、別に男女差を酒の種別で表した、つまり隠喩(メタファー)の句であるわけではない。「ブラザーXXXシスターYYY」といういかにも何処にでもありそうな言い回しに填め込むことで、「日本酒」と「焼酎」がもつ語感、イメージ、また読みにおいて読者が想起する経験などを楽しませようという仕掛けなのだ。

つまり、「難解」という見方とは逆に、『水牛の余波』の句ではすべてがあっけらかんと句の表面に投げ出されているのであって、「解くのが難しい」というところの「解く」べき謎がそもそも欠けているのである。もちろん、作品として提出された時点で、読者には深読みすることが許されている。また次のような句では、国家(国語?)や宗教に対する何らかの見解が述べられていると読むように誘われている気もしてくる。

調律は飛鳥時代にすみました         小池正博

はじめにピザのサイズがあった

タクシーを呼べば仏教伝来す

ただし、これらの句であっても、言葉のフラットなつかみ方が句の印象を決めて、そこから深読みも生じてくるということは言えると思う。『水牛の余波』の句がもつ別の特質は、引用元が高等、高尚なものまで含むにも関わらず、句の構成自体は現代語のレベルでシンプル、明瞭なものに徹底されていることである。そのことによって、それぞれの言葉に過剰な価値が付加されることを回避しているのだ。この句集では、文体は、すべての言葉に通常はありえない自由を与えて、自在に交流させることに奉仕している。そこに従来型の「自己表現」や「リアリズム」を価値基準とする「文学」とは対照的な言葉の楽しみが生まれるのだ。一句として読むならどうやっても作品としての価値に疑問が残る次のような句も、そうした傾向を句集全体へ浸透させるための仕掛けなのかもしれない(これは買いかぶりかも知れないが)。

目の前に池があるから座ろうよ        小池正博

兄さんが裁判所まで来ています

その海老にお湯をかけてもいいですか

表現上でもうひとつ気になったのは、上の3句目にも出てくる「その」や「そこ」といった指示詞が散見されるところだ。成功した句もあるが、「その海老に~」の句のようにピンと来ないものが多かった。面白い読みがあり得るのか、他の評者の意見を読んでみたいところだ。

渡辺隆夫『川柳 魚命魚辞』は作者の第5句集。ファンとしてはとりあえず、これまでの句集から2句ずつ引いておきたい。

八月を泣きたい人は泣いて下さい   渡辺隆夫『川柳 宅配の馬』

原子炉でするめを焼いている男

かなでは切れぬ樋口可南子かな    渡辺隆夫『川柳 都鳥』

鶴彬以後安全な川柳あそび

わけあって両手に妻という事態     渡辺隆夫『川柳 亀れおん』

テロに吹かれて歩かいだ

散歩体とは犬に引かれて行く物体   渡辺隆夫『川柳 黄泉蛙』

ベランダを降りたらダライ・ラマになる

小池の表現も川柳のみならず文芸表現として個性的なものだったが、渡辺の場合は時事川柳や新聞川柳ととりあげる題材が重なるにも関わらず、読後感はそれらとははっきりと異なるという点で注目に値する。『川柳 魚命魚辞』の句にも同じことが言える。

廃仏毀釈 明治初年のタリバーン     渡辺隆夫『川柳 魚命魚辞』

原子力銭湯へ行っておいでバカボン

ふらふらと戦死の父が慰安所へ

八月十五日は燃えるゴミの火

鳥帰るあらまテポドンどこ行くの

読後感は、まずは、新聞川柳よりはるかに過激である、といったところだろう。ただし、ただ過激な内容を書いただけでこんなに面白い句が出来るとは思えない(出来る、と思う人はぜひ書いてみてください)。もし過激な思想をもつ人間がその思想を表現しようとして川柳を書いたとすれば、とても読めたものではないに違いない。渡辺の句が楽しく読めるのは、とり上げる事象に対する作者の「解釈」を押し売りする表現とは180度反対に、誰でもが情報として知っている主題を、ことさらな知識や意味を貼り付けることなく、あくまで軽く、あっさりと提示することで、句としての表現にしおおせているところだ。テクニック面で言えば、例えば一句目では、「廃仏毀釈」と「タリバーン」という私たちが別個の時間・場所に属するものとして認識している事象を、「明治初年の」であっさりと結び付けて、それぞれの在りかたを浮かび上がらせている。

時事川柳の弱点は、全国紙というメディアの公式見解を自分たちの認識であると錯覚して、さらに句というかたちで「解釈」を示そうとするところにある。そうした姿勢は、新聞メディアが後発メディアに比べて圧倒的に情報速度において劣っていることがはっきりとして、また、「日本国民」がほぼ同じ情報を共有しているという幻想も崩れた現在では、時代遅れもよいところだという点でも、すでに有効ではないのだ。従来のように、善悪でレッテル分けされたある事象をとり上げて、価値観の共有を確認することで喜んでいるようでは、文芸としてはもとより、娯楽としても、劣化しきったジャンルと言わざるを得ない。渡辺の表現はそうした川柳の、またこの特定ジャンルのみならず、従来型の情報共有に頼りきった怠惰な自称・表現者に対する痛烈な批判である。「廃仏毀釈」「タリバーン」「原子力」「慰安所」「八月十五日」「テポドン」、みな等しなみに情報でしかないのである。こうした語を出すだけで、何か重要なことを共有した気分になるほどバカバカしいことはない。

句集『川柳 魚命魚辞』は、時事性が決して強いとは言えない。そうした傾向を期待して読むと、これまでの句集と比べてトーンダウンしているとも感じられるかもしれない。ただし、渡辺川柳の特質を再考するには、時事性をとりあえず外してみるのもよいのではないかという気もする。すると、まず目立つのは俳句の手法として考えられることの多い「切れ字」そして「季語」を多用していること。

歳の瀬や派遣は切られ俳句は切る     渡辺隆夫

パラパラや少女は昔マッチ売り

剥落の秋は塗装のアルバイト

渡辺が俳句を川柳の一体であると公言していることは知られているが、これは、川柳が俳句より上、などという価値判断をしているのではなく、そもそもジャンルのもつ独自の価値というものをハナから相手にしていないのではないだろうか。その上で、枠組みを決めてその中で良し悪しをうんぬんする場とは無関係な表現を川柳としているのではないか。

 『川柳 魚命魚辞』の中でそうした〈何でもアリ〉な渡辺の特質がいちばん出ているのは、二つの旅中詠のセクションだろう。「フレンチカンカン」と題された章から4句。

セーヌ秋水エッフェル塔ぐらり      渡辺隆夫

悶々のモンマルトルに秋のゾラ

昔からネッシーなんて興味ないんだ

衛兵のキルトの下はノーパンツ

この部分を読むと、読者・ファンの期待がどうであれ、渡辺が川柳とは風刺であるなどとはサラサラ思っていないことがはっきりする。また、自分の視線が特別だというナルシシズムとも無縁である。時事性の高い句についても、これらの句と合わせて、面白さ、爽快さを再読してみる必要がありそうだ。

両句集に共通するのは「言葉や現実を捉える一つの批評的視座」だと書いたが、それは決して固定された枠組みではなく、それとはまったく逆の従来の価値のありかたを解きほぐすような言葉の自由さなのである。そのまま面白く読める句集に、わざわざ重っくるしい評をつけてしまった気がしないでもない。

最後に私がいちばん好きな句を一句ずつ。

その歩哨星の尻尾に撫でられる   小池正博

草津ヨイトコ二人はイトコ        渡辺隆夫

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