川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞(4)    湊圭史

川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞、最終回です。

第一回はこちら、第二回はこちら、第三回はこちらです。 『バックストローク』湊50句選PDFはこちら

(作者名の後ろのデータは掲載の号数と、a=アクア・ノーツ(同人雑詠欄)、w=ウィンド・ノーツ(投稿欄)、k=課題吟、を表す。)

39

水面をゆがむ光と河童文学          兵頭全郎 第20号a

第三回の最後で「コトバ川柳」について書いたが、具体例をあげるとすればこの句などちょうどよいかも知れない。「水面をゆがむ光」と外界を描くかに見せながら、その光景を助詞「と」によって「河童文学」に並列してみせる。「河童文学」は芥川龍之介「河童」などが思い浮かぶがもちろん造語で、カッパという伝説上の生き物たち自身がつづっている文学、といった空想的な読みも可能だろう。水面の光のイメージと、言語上のさまざまな意味内容へとつながる造語を直結することで、読者の中に、この句がなければ起こらない作用が生み出される。「河童文学」はそうした言葉の戯れを唯一の価値とする言語行為、つまりこの句自体を指している、とも読める。言葉の表面をゆがめる、あるいはゆがみをさっと掬いとることで、一つの句が立ち上がる、その感触を快とすればよい句である。

40

半跏思惟逢いたい人は二人いる         小池正博 第24号w

「半跏思惟」像は腰掛けた状態で足を組んで瞑想する姿を現した仏像。国宝の第一号である京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像が有名であり、細身でたおやか、女性的な雰囲気をかもしているものが多いと思う。この句はその半跏思惟像を想起させながら、語り手の「逢いたい人は二人いる」という呟きにつながって、したがって、「半跏思惟」を行っているのも語り手であるのかも知れないと思わせる。しかし何といっても一番効いているのは最後の「二人いる」だろう。「逢いたい人はひとりきり」などとすればべとべとの感傷になってしまうが、「二人いる」はそうした感傷を軽やかにかわしつつ、弥勒の、また私たちの思念に含まれる広がりを暗示する。多用された「i」音がその軽やかさと、句全体のやわらかい雰囲気にぴったりである。

41

透明な稚魚ひしめいてゆくそらの細道        吉澤久良 第29号a

ふたたび引喩の句で、芭蕉『奥の細道』と、その旅に同行した弟子・曾良が、言葉遊びによって織り込まれている。しかし、単なるダジャレに終わっていないのは、空間的な広がりがゆたかに感じられるからだろう。特に「そら」の平仮名表記が、細かいながらも秀逸な工夫になっている。「ひしめいてゆくそらの」までの平仮名の列が前後の漢字の重さとの対比で、風景の透明感を生んでいる気がするのだ。想像を広げてゆくと、この「そらの細道」をひしめく「透明の稚魚」とは、幻想の空間を自由に泳ぎ回る言葉の群れではないかと思えてくる。『奥の細道』に描かれた旅と、曾良による「曾良旅日記」での記述がズレていることがよく指摘されるが、そうしてテクスト化され定着された言葉の背景には、より広々とした言葉の世界があると想定してよいと思われる。ただし、そこに泳ぐ言葉は「透明の稚魚」のように鮮やかだが、ほとんどが消えてしまうものでもある。

42

ひるすぎの姉と性具は違います          石部明 第5号a

「違います」とわざわざ言われると、逆に並置されたものに共通点を探そうとする欲求が生れる。これも言葉の世界に住む人間のおかしなところだろう。現実には違いはそこにあるだけだが、それが言葉の世界が生む差異の網目につかまえられると、様々な類似が浮かび上がってきてしまうのである。共通点を探す欲望を刺激する、というのは、別の言葉で言えば、読みへの欲求を掻き立てるということである。「ひるすぎの姉」と「性具」はどこが似ているのか? この句では性的な関連を読みとるのが自然だろう。「ひるすぎの」という限定を鍵とすれば、普段の姉は「性具」と似ていないが、「ひるすぎの」姉は「違います」と指摘しなければならないほど「性具」に似ているのだ。どこが似ているかというと・・・、と考えて、読者はこの句の罠にまんまと嵌まるのである。

43

吸い口を捜す瓦礫によじ上り           北沢瞳 第20号a

「吸い口」「瓦礫」と強い意味内容をもちそうな言葉が入っているのでそこに気をとられそうだが、この句のポイントは省略にあると思われる。「吸い口」とはどんな吸い口で、そこから何が出てくるのか。「瓦礫」とはどのような瓦礫なのか。そうした通常の読みにおいて必要とされる情報が省略されることによって、「瓦礫」が暗示する悲惨な状況に置いて、唯一の救いあるいは慰めとなるだろう「吸い口」を求めて「よじ上る」行為の、その切迫感が鋭さをもって定着されている。背景の情報がないということは、ある意味で、読者がこの句とともに、この句の空間に閉じ込められるということだ。そして、この句の語り手と「吸い口を捜す」苦しい探求をともにすることとなるのである。

44

肩に乗る象に乗る象に乗る英霊           きゅういち 第28号a

戦争についての句は短歌、俳句、川柳、また他のジャンルを問わず、繰り返し現れるものであり、それも人間社会の悲惨のひとつの極である以上自然なのだが、日本社会の場合、そうして描かれる戦争が第二次世界大戦という半世紀以上も前の出来事でありつづけている、というのが特異である。「英霊」などという言葉が何故か生き残っているのもその特異性の徴候であり、この句の「肩に乗る象に乗る象に乗る~」の徹底したアンバランスさはそうした独特の時間感覚を把握したものとしてこれ以上ないほど正確であると思う。また、この句はそうした事象を外から、あるいは俯瞰した状態で描いているのではない。歴史を自らに圧し掛かってくる重みとして体感しているところから、句自体の力が生れているのではないか。

45

観念や鵜の喉首を下りてゆく            金築雨学 第10号a

鵜が魚を呑み込んだあと、喉首のふくらみが下がってゆくのを見る。この具体的な光景に基づいた描写に、切れ字「や」によって「観念」という言葉が並置されている。こうした並置はさまざまな読みに開かれているのが普通であるが、この句においては、「観念」を身体的に受け止めざるをえない何かとしてそのままに呑み下している一人の人間のすがたをどうしても読みとってしまう。どういう「観念」かは問題ではない。私たちは日々、それが一体何を指しているのかはっきり分からない観念と相対し、状況によってはそれをまるごと否応なく受け入れるように迫られる。この句では、「観念」が鵜の姿を通して実体化され、感覚されている。幾分かの抵抗とともに、この鵜の像は私たちの戯画であると、苦い諦めとともに読むしかあるまい。

46

想念の檻 かたちとして桔梗             清水かおり 第15号a

「想念の檻」とは、「想念」が囚われている「檻」であるのか、それとも、「想念」それ自体が「檻」として何かを閉じ込める、ということだろうか。おそらく、その二つの読みは結局あまり変わりないところに行きつく、というのが、この「想念の檻」という圧縮された表現が選択された理由ではないかと思われる。私たちは世界をそもそも想念としてしか捉えられないわけで、そうして作り出した想念としての世界をもって、新たな出来事という想念を捉えていく。また同時に、世界や出来事という「想念の檻」に囚われることが私たちの生だとも言える。この句の面白いところは、それを端的に表現した上でそうした「想念の檻」は「かたちとして桔梗」なのだ、と断言してみせるところである。桔梗は花の中でも幾何学性の高い整ったかたちをしているが、入り組んだ「想念の檻」のかたちをそれだ、と言い切るのは実際そうである、ということではなくて、そうであると信じたい、そうであることが理想である、という思いが後ろにあるからだろう。現実から性急に理想を切り出そうとしているのだ。理想への執着がそれにふさわしい性急さで書き留められたところに、この句の力が生れていると感じられる。

47

バイオリンがひとり視線を合わせない            広瀬ちえみ 第2号a

指揮者が指揮を始める、あるいは指示を与えようとしてぐるりとオーケストラを見渡す。その中で一人、目をそむける者がいる。ただ「バイオリンが」というところをみると、コンサートマスターではないらしいし、バイオリンは通常数人いるから、演奏上は特に問題はないだろう。ここで書き留められているのは、現実の大きな流れ(大勢の人間が織りなしてゆく出来事)の中の、ほんのわずかな引っ掛かりなのだ。ただしそうしたわずかだから重要ではない、というところに現実のややっこしさがある。「バイオリンがひとり視線を合わせない」ことに気付いたということは、それまでに至る出来事や心理の積み重ねや、そこから生れてゆく新しい現実の折り目もあるのである。本当は見られているバイオリン奏者の側は軽く考えごとをしているだけなのかも知れない。恐らく、見た側が「気づいてしまう」ことの怖さがこの句から読みとれる驚きを支えている。

48

輪ゴムにて耕衣と冬二束にする           飯田良祐 第4号w

「耕衣」は俳人・永田耕衣、「冬二」は柳人・定金冬二。実際にこの二人の人物を輪ゴムでくくるわけにはいかないので、ここでは二人の句を書き抜いたノートやカードを、雑に「輪ゴム」で束にしてしまう、ということだろう。俳句と川柳の違いを云々するせせこましい論への皮肉もこもっているのだろうが、そこで読みを止めるのは勿体ない。耕衣と冬二に共通するのは、年齢を重ねてから「老い」をテーマに本領を発揮したというところ。この句ではそうした「老い」の作家たちの作品を読み切って、さらに読み捨てようとする気構えを読みとるべきだだろう。だが反対に言えば、「老い」を通じた成熟には向かうことができない心性の吐露として読めるのかも知れない。

49

ホームドラマみんな優しく嘔吐する            松永千秋 第5号a

家族とはやっかいなものである。それは私たちの日々を支える現実であると当時に、定められた役割分担という虚構の構図でもあるからだ。むやみに明るく描かれるにしろ、暗いどろどろの展開にしろ、「ホームドラマ」はこうした両側面にまたがって私たちの抱く感情を露骨に提示するものである。この句では、「ホームドラマみんな優しく」までの明るく楽しい流れが、最後の「嘔吐する」で負に側に一転して引きずりこまれるように仕組まれている。この「嘔吐」は「みんな優しく」なければならない、という理想像の裏から噴き出してくる複雑にもつれあった感情そのものだろう。TV画面から突然噴き出す嘔吐物のように、マンガ的に想像してみるのも面白いかも知れない。

50

ノコギリを鳴らす芸あり雲の峰             筒井祥文 第15号a

「ノコギリを鳴らす芸」とは、有用なものをいかに無用に、馬鹿らしく使うことができるかのまさに究極の範例。この句は「~あり」という文語体を用いることで、この馬鹿馬鹿しさを最大限にアピールしながら、いやいやそんなのもある、だからいいんじゃないの、と鷹揚に肯定してみせる。構造としては「あり」で一端区切りがあって、「雲の峰」は夏の季語で入道雲である。つまり、この句はいわゆる切れと季語がそろった、フォームとして定義された俳句の要件を満たしているわけだが、そうした構造が効果としてもたらすところは俳句とはまったく異なる。「ノコギリを鳴らす芸あり」で捉えられた現実への徹底した批評眼が、「雲の峰」の遠景をあざやかに配することで、自然事象との関連においてぼやけるのではなく、逆に焦点が絞られることでクリアに伝わってくる。俳人であれば自句を「芸」と呼ばれることを忌避するだろうが、この句は「芸」を徹底することで作品になっている。この視点の鮮やかさと肩の力の抜けた軽みは川柳以外の何ものでもないだろう。

さて、『バックストローク』50句選&鑑賞、これで終わりとなります。第四回までちょっと間が空いてしまいましたが、今回書いていて、この間も私の読みのためには悪くはなかったかなと思っています。どこか性急に「川柳とは何ぞや?」という問いを追求してみようという欲がずっとあったわけですけれども、一句一句の読みと、そうした俯瞰からの問いにはどうやらうまくリンクしてくれない部分があって、それは端的に言うと、川柳というジャンルや川柳が書かれ読まれる場というコンテクスト抜きだと、どうしても「ああも言えるし、こうも言える」というところにしか行きつかない、という点にいちばんの理由がありそうです。

とは言っても、句の読みに集中することで見えてきたものももちろんあります。第三回の始めに、「時間の中にあるリアリティ、突き詰めていけば、日常の時間性そのもの」が、以前の川柳とは違う、ここで選んだ50句が代表例だと私が考える『バックストローク』の面白みだ、と書きました。これは単に「現実をうまく写しとった」というのとはまったく違う意味だ、とここまで読んでいただいた方々には少しは伝わったかと思います。従来の表現が単線的なひとつのコンテクスト(文脈、意味の脈絡)を提示することで安定した世界観につながっていたのに比べると、ここでとりあげた句のほとんどは、句の中に複数のコンテクストを重層化させえて示したり、あるいは独特の切り口でコンテクストを切断することによって外部を露呈させたりといった戦略性をもっているのではないでしょうか。しかしながら、バラバラのもの/文脈を提示するというだけでは、ただのナンセンスとしてこれも平板なものになってしまう。戦略性をもちながら、読みの過程において、私たちが生きているそれ自体多層的な時間とそれが接続するように成立している、ここまで来ると単に戦略性という言葉では捉えられない、制御不能の領域に入ってきますので、そこからは、そうした効果が可能となっているのはどうしてか、それは「川柳というジャンルや川柳が書かれ読まれる場」というコンテクストがもつ力があるのだ、と想定するより他ないと思われます。

ともあれ、『バックストローク』という場から、私なりに50句を選んで鑑賞していくことで、ここではここなりの場というものが出来たのではないでしょうか。性急に結論は出ませんが、自分自身でもこの選&鑑賞を読み直すことでこの場の意味を考えてみよう、とそんなふうに思っております。加えて、読んでいただいた皆さまからの感想をいただけるとありがたいかなと思います。「選は創作である」と言ったのは確か高濱虚子で、川柳でも同様のことを様々のかたちで語られている方もおられると思うのですが、「選が創作」であれば、創作が必ずそうであるように、選・鑑賞をした私には見えない部分というのが残っていて、だからこそ、ここまで(ちょっとシンドくもありましたが)楽しく選評をしてこられたのだと思います。ですので、「お前の選や読みにはこんな特徴がある」、あるいは「分かってないなあ、こんな句を選んで!」もしくは「こっちの句のほうがよいのに!」といった評に対する評をいただけると、さらに楽しめると思うのですが……。ちょっとムシがいいかな?

とりあえず、このサイトでの記事ではこれで終了と致しまして、加筆・修正を加えた上でブックレット(小冊子)版でも作ってみようかと考えております。サイトをご覧にならない方にも読んでいただきたくもありますので。ブックレットご所望の方は、「雑記帳」のページにある連絡先にメールいただけるとありがたいです。

では、(1)~(4)までお読みいただいた皆さま、ありがとうございました。

『バックストローク』湊50句選PDF

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2 Responses to 川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞(4)    湊圭史

  1. みなと より:

    吉澤さま

    コメントありがとうございます。

    「魂が吸われていくような光景」というのは、なるほどです。ノスタルジアべったりの句はたくさんありますが、「魂」としかいいようのない感触がある句はまずない。狙って書けるものでもなさそうですね。「今現在の不安やうそ寒いものにつながっている」というのも納得。題材としては少し古いのでしょうが、句としてはまさに現在のものです。それにしても、これは稀有な一句ですね。

  2. 吉澤久良 より:

    せっかくの労作になんとか絡んでいきたいとは思っていたのですが、なかなかついていけませんでした。(3)と(4)から、せめて何句か、ということで。

    49 ホームドラマみんな優しく嘔吐する  松永千秋

     「嘔吐』は『みんな優しく』なければならない、という理想像の裏から噴き出してくる複雑にもつれあった感情そのものだろう」という湊さんの読みに基本的に賛成です。ですから、微妙にニュアンスの違う(同じかもしれませんが)ところだけ書きます。「嘔吐」する主体は登場人物たちでしょう。登場人物が話をしたり、ご飯を食べたり、歩いていたり…、画面の中のそれらの行為がすべて「嘔吐」しているように見えてしまう視聴者。そういう視点と理解しました。そうすると、その視聴者自身が実際の生活の中で、話をしたり、ご飯を食べたり、歩いていたりすることも、自分自身で「嘔吐」と見えてしまう。「ホームドラマ」の安っぽいストーリーをバカにすることは簡単なんだけれど、では、それほど自分の実生活は堅固か?とそこはかとない不安がじんわり滲み出してくる。問題は、読者自身がここからニヒリズムに行くか、「嘔吐」している自分自身を抱きしめることができるか、ということになるかと思います。千秋作品はひそかに読者にそこまで突きつけているのかも。そう読むと、マンガでもかなりシリアスなマンガになってきそうです。

    28 かがやいてうつむいている竹のざる  畑美樹

     うちの家には「竹のざる」はありません。あるのは、塩化ビニールっていうんでしたっけ?あの赤やらピンクやらのざるです。「竹のざる」が干してあって「かがやいて」いるのは、室内の流しではなく、野外に向かった開放的な空間だと思われます。日の光に照らされているから、光る程度ではなく「かがやく」のだと思います。当然そこには、風も木々も水も空もあって、悠久な時間の流れがある。そういう空間と時間に対する素直な賛嘆として「かがやいて」という句語が置かれていると思います。湊さんは「主客融合」という言葉を使っておられますが、「主客融合」はまず作中主体とそれらの空間や時間との間で行なわれ、それを読者が追体験するという形で理解した方が的確なように思います。ただ、畑美樹さんの場合、このような同化もしくは受容とでも言うべき感覚とやや違った句を、今書き始めているというのが感じとしてあります。

    33 血は透けて氷菓へかざす面灯り  くんじろう

     「批評や危機といった言葉で表現するには余りにも繊細なイメージである」という湊さんの評価には賛成です。くんじろうさん自身が持っている繊細さが、奇跡的に表出された句だと感じます。奇跡的というのは悪い意味ではありません。何かが句として十全に表されるなどという幸運は、そうそうないという意味です。この句はくんじろうさんの代表句だと思っています。
     「面灯り」は湊さんと同じく「顔がほのかな光に照らされているところ」と私も読みます。とすると、「氷菓へ」は「氷菓を」ではないか、と疑問に思うのが普通でしょう。「血が透けて」いる顔の上へ「氷菓を」かざす、というのが普通の情景把握だと思います。ではなぜ、「氷菓へ」としたのか、ということになります。
     「氷菓」ですから、夏の夜店のイメージ。となると「灯り」はアセチレンランプか、神社の灯明の灯りかなと思います。ノスタルジックな風景ではあるのですが、湊さんが指摘しておられるように、なにか危ういものが感じられます。その危うさは、この句を過去の追憶の句と片付けさせずに、今現在の不安やうそ寒いものにつながっていると感じさせます。なんとなくその不安定な感覚を引き起こしている一因が、「氷菓へ」という構文の不安定さではないかと思うのです。「氷菓」を自分にひきつけるのではなく、「氷菓」のようなもの「へ」引き込まれてしまう、自分の存在のたよりなさ。確たる存在ではない。「血も透けて」いるというイメージがそれを増幅する。魂が吸われていくような光景。そんなふうに読みました。

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