川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞(2)   湊圭史

第一回は序として、えらい堅苦しい文を書いてしまいました。ので、ちょっと軽めの補足を。

とりあえずの50句選、私自身でも一年後にもう一度読み直していくとずいぶん入れ替わるかも知れません。希望としては、これが呼び水になって、『バックストローク』同人の面々がそれぞれ、そして同人以外の方々がどういう作品に注目するのか、ぞくぞくと表明があると楽しくなるなあと思っています。

また、第一回は重量級の句がつづいて、鑑賞も重苦しい感じに。この第二回の後半から、かるみの句に入っていきますので、シンドいなあと思ったかたももうしばらくお付き合いください。

(作者名の後ろのデータは掲載の号数と、a=アクア・ノーツ(同人雑詠欄)、w=ウィンド・ノーツ(投稿欄)、k=課題吟、を表す。)

11

累計や劣化してゆく天の川          井上せい子 第20号w

切字「や」と季語「天の川」が入ってかたちの整った句だが、美的世界として完結することなく、その美は読者に向けられた刃として鋭く光っている。「人が死んだら星になる」というメルヘンチックな考え方を延長し、「累計」で換算されてしまうような過剰にアンバランスな人類の状況が天空にも反映しているという。大きな景や事象を出せば普通は現実が相対化されるのだが、現代に対する冷やかなこの句の視点はむしろ、巨大なスケールで展開している現実を相対化不可能なものとして突きつけてくる。

12

脳みそにすうすう入るひとごろし          草地豊子 第25号a

「ひとごろし」、許されざる罪であり、自己の生存についての問いも想起させる事象だが、それがそのまま日常の思考へと強い意識のないままに入ってきてしまう。心理的抵抗のなくなったそうした状況が、「すうすう入る」によって、倫理道徳的説明なしですとんと句になっている。この句が「すうすう」と読者のなかに入ってくるところに一番の怖さがあるのではないだろうか。川柳の批評性は、ある人間の事象に対する解釈を示すよりは、この句のように、事象のあり様を一筋でつかむ句のほうが有効であるかも知れない。

13

育てなおしの絵本が舌を噛み切った           高橋蘭 第26号a

「育てなおし」は、幼児期由来の心理的外傷がある人を、理想的な幼児体験を疑似的に繰り返させることで治療すること、らしい。療法自体の是非はひとまず置くとして、こうした方法に対して違和感・うさんくささを感知するのはマトモな感覚であると思う。理想的なストレスのない幼児体験というイメージがそもそも眉ツバものなのだ。この句では「育てなおしの(育てなおしのための? 育てなおしの場面を書いた?)絵本」そのものがあっさり「舌を噛み切っ」てしまう。「切った」の過去形の断定に強烈な皮肉がこもる。

14

ある朝ふっと鏡の中の「泣く女」        田中峰代 第3号a

「泣く女」はパブロ・ピカソの絵の題。画家の愛人ドラ・マールがハンカチを噛みながら泣き叫ぶ様子を、派手派手しい色でグロテスクに描いている。この句は「ふっと」によって表された時間の緩みから生れた自己意識で、日常からピカソの絵に表現されたような感情の炸裂へと直結する。この感情はすでに前夜までに蓄積されていたのだろうが、朝の明るい鏡によって意識へと浮上したのだ。前後のドラマを想像するのもいいが、一句の素晴らしさは自己を「泣く女」として再客観化してとらえる視点にある。

15

妻の刃を渡ってくるのは誰だろう           田中博造 第5号a

刃を真ん中において、夫婦が対峙している。よく知っているはずの人物が別人としてこちらに迫ってくる・・・。この句で夫婦ゲンカの刃傷沙汰を想像するのは面白くない。平穏ないつもの台所の風景で、ふとした瞬間に包丁をもった妻が振り向いた、その瞬間、関係性の謎が浮上してくると読みたい。普段は「夫婦」といった役割分担や過去の記憶によって覆い隠されているが、現在の他者との関係はつねに測りがたい部分を伴う。「誰だろう」は、そうした謎に不意をつかれて呆然として洩らした呟きだろう。

16

麦熟れて父の位牌のあおあおと           平賀胤壽 第26号w

「麦熟れて」「父の位牌の」「あおあおと」、この三つのパートのつながりは不思議。言葉の並びからすれば、「父の位牌」が「あおあおと」しているのだが、位牌があおあおとしているとは普通の感覚では思わないに違いない。ところが「麦熟れて」というこの世の生のひとつの極みを示すイメージが前に置かれることで、死のシンボルであり、また物としても非生物である「位牌」が命を吹き込まれるようだ。それが「あおあおと」につながる。生と死が相互に浸透しあうことがあるのを実感させてくれる。

17

追い詰められてブラジャーの真似をする          丸山進 第3号a

爆笑!で終わって、ただひたすらに面白い句としてもよいのだが、何度も読み返していると、「追い詰められて~の真似をする」に笑ってだけいては済まされないような悲哀と、さらに言えば危機感が漂っていると思えてくる。この危機感があるからこそ、「ブラジャー」というある意味分かりやすい、読者を立ち止まらせる言葉が活きる。そしてこの危機感と無根拠な「ブラジャー」の選択によって、読者は哄笑せざるを得なくなるのだ。この句を読んで笑わない(笑えない)ならば、ひどく不安になるのではないか。

18

こんこんと説かれ少女は泉となる           渡辺隆夫 第4号w

「こんこんと」はそのまま読めば、説得の様子を表している擬態語である。しかし575の短さの中では、その語感が句末の「泉となる」にまで共鳴をおこす。油断して読んでいると、こうした仕掛けのせいか、この少女は一種の聖性をもった存在、と読みそうになる・・・。だが待てよ。これは街頭でスカウトマンに引っかけられて、アダルトビデオ、しかもスカトロものに出ることになった女の子のことかも知れない。もっとも、そうした頭のユルい少女に、どこか聖性が漂うことがあったりもするのだが・・・。

19

夕張の月もメロンも四角なり            津田暹 第18号a

夕張市の財政破綻をテーマにした時事吟かとも感じるが、それよりも、まったく無意味かつ無根拠な句として読むほうが楽しい。「月もメロンも四角」というのはまったくデタラメなのだが、そのデタラメを大見えを切って、しかも夕張の広い風景をバックに決めてみせる爽快。そこからひるがえって考えれば、時事的なテーマをこうしたナンセンスな作品で取り上げることは、一種の救いとなることが大いにありそうだ。それが現代の川柳のひとつのあり方かなという気がしてくる。

20

ファスナーが噛んで不時着してしまう            浪越靖政 第19号a

これはまあ男性同士(女性も何のことかは分かりますよね?)、あはは、ありますよね、と笑い合えばそれでよい句、と作者も言うと思うのだけれども・・・。ズボンのファスナーから、「不時着」という言葉へと跳ぶ、その跳躍が楽しい。しかし、わが身の体験をよくよく思い出してみると、用が済んでさっそうと立ち去ろうとしたのについ挟んでしまって、ああ・・・と身を屈めるあの感じは確かに「不時着」そのものだ。こういうのも写生、というか、こうした驚きがありながらムリのない把握こそが本当の写生の技術なのだろう。

21

三丁目のふっくら萩の仕事率           横澤あや子 第25号a

なぜ三丁目なのか、どこの三丁目なのかを問うのには意味がなさそう。「ふっくら萩」はもちろん「ふくらはぎ」と重ねた言葉遊びで、じゃあ、その意味は?と問われてもお手上げである。言葉遊びの試みはナンセンスを追求しようとして、逆に意味に拘ることになってしまうことが多い。この「三丁目のふっくら萩」は徹底してナンセンスであることに成功している。イメージとしては何だか肉感的かつぼんやりと季節感もあって、しかしその「仕事率」を問うなんていうのはまったくもってナンセンスであろう。

22

23ページのメロン図について           森茂俊 第27号BSおかやま大会

何らかの文脈を強く感じさせるわけでもなく、はっきりした情景を伝えているわけでもない。「23ページ」という割り切れない、中途半端なページ数。「メロン図」という具象にも抽象にもイメージできる(あるいはどちらにもしっかりとはイメージできない)造語。「~について」と、句全体が内実ではなく、何かを指し示しているのを暗示しながら、句の後に何か情報があるわけでももちろんない。すべての語が句を現実に着地させるのをはぐらかすように働いているのだ。この宙吊りの感覚を、楽しめるかどうか。

23

コンビニの明るさはやさしさだと思う          前田ひろえ 第2号a

「コンビニ」という事象をここまでストレートに肯定的に描いた句はないのではなかろうか。「やさしさである」と断定すれば、皮肉がこもったり、「やさしさ」だとどうしても思わないとおれない人物の悲哀が前面に出るだろう。この句は「~だと思う」とワンクッション置くことで、「コンビニの明るさ」というものもあくまで人間的事象であって、そこに「やさしさ」を見るのも自然だと読者に思わせる。川柳の批評的視点は、皮肉やうがちなどの鋭さを競うものだけではなく、こうした柔らかさにもあるらしい。

24

ストローの折れるところを握りしめ          徳永政二 第1号w

折れるストローというある意味どうでもよいものをとりあげ、しかも使用するのではなく「握りしめ」る場面に注目して句として切り出す。不思議な視線である。「握りしめ」の連用形はこの句の全体がある出来事の流れの中の一瞬で、前後にドラマがあることを暗示するが、ある種の緊迫感が漂っていること以外は読者には分からない。しかし分からないことによって、また「ストローの折れるところ」という特に意味をもたないが具体的なイメージによって緊迫感がより強く伝わる、というのが短詩の面白いところだろう。

25

南瓜野郎と言って必ず後悔する           楢崎進弘 第13号a

「南瓜野郎」とは罵倒されたこともしたこともないが、ここに示された「後悔」にこもった苦々しさの実感は何だろうか。この句のポイントはまずは副詞「必ず」であり、「必ず後悔する」のに、どうしても言ってしまうということでもある。まったく、後悔するならばしなければいいのに、という正論で解決できるほど私たちは単純ではない。しかし、「南瓜野郎」とは! 私なら言った途端に、「南瓜」の重々しいイメージに負けている自分の口の軽さを感じて、やはり後悔するだろうと思う。

第1回と違って、「かるみ」の句もかなり入ってきました。一般に広まっている川柳のイメージに近い句なので、こちらのほうがしっくりくるという読者も多いでしょうが、私としては、句の核の部分では、重めの句と実はそれほど違いはないと思います。

この50句選の最後でその核の部分をじぶんなりの表現で論じてみたいと思いますが、とりあえず先達のことばを引いてみると、この核は、時実新子が「古(伝統)川柳の3要素を克えて」提唱した「現代川柳の六要素」のうち、第一番「危機感」に当たるものではないかと思います(時実新子『花の結び目―新子の川柳行路』朝日文庫、pp.213-214参照)。

川柳がもつ批評性が、私(自己)を描くことから導かれた詩性を求心的な核として先鋭化してゆくことで、さまざまな事象に対して一句を立ち上がらせてゆく。それが今では「私を描くこと」から離陸しつつあると思いますが、「危機感」はここまでとりあげた句すべてのどこかに込められていると感じています。

『バックストローク』湊50句選PDF

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2 Responses to 川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞(2)   湊圭史

  1. みなと より:

    コメント、ありがとうございます。オノマトペや副詞は下手につかうと通念を強調しただけに終わりますが、豊子さんの句のように本質的な要素になると強い句ができますね。この「すうすう」はみんな実感として受け取るのではないでしょうか。ひろえさんの句は大好きな句です。「~と思う」がこの場合は、テーマを書き切ることにつながっているのは、ちょっと句を読む前には考えつかないことです。参りますね。

  2. 吉澤久良 より:

    湊さんのパワーには圧倒されっぱなしです。なんとか二句だけですが。

    12 脳みそにすうすう入るひとごろし          草地豊子 第25号a
    オノマトペを使うのは難しい。オノマトペは基本的には修飾語であり、補足的要素であるから、冗長さが付きまとう。この句は貴重な成功例。この句の中心が「脳みそにはいるひとごろし」でそれを「すうすう」が補足している関係だったら無理だったと思う。「すうすう」が決定的な位置を占めているからだと思う。〈脳みそにひとごろしがすうすう入るんだよ〉ではなく、〈脳みそにひとごろしが入るんだよ、それでね、その入り方はすうすうなんだよ〉という構造として読んだ。

    23 コンビニの明るさはやさしさだと思う          前田ひろえ 第2号a
    重苦しい現代川柳(自分の句を含めて)を読みなれた眼には、新鮮。なかなか、堂々と「と思う」まで書けない。「コンビニの明るさはやさしさ」だけなら単なる感傷になる。その感傷を「と思う」と距離を取ることによって、排除成功。ここまでは技巧の話だが、書かれていることは骨太。けれんみのない作者の人間像が透けて見える。

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