川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞(3)   湊圭史

川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞、第三回です。

第一回はこちら、第二回はこちらです。 『バックストローク』湊50句選PDFはこちら

第二回の終わりに、前半に取り上げた句すべて、時実新子の言葉を借りれば、「危機感」がどこかに感じられる、と書きました。後半の句も同じことが言えると考えていますが、ただし、その現れはもう少し間接的でとらえ難い句が多くなっていくように思います。川柳史から大ざっぱに類推して書いてみると、古川柳の客観から近代の主観重視を通過して、「危機感」の句が登場してきた。それがふたたび客観において捉え返されることで、重層的な世界観を含んだ句が登場してきている。そうした展開をこれらの句に見ることができるのではと思います。いつまでも借り物の表現ではなんなので、私なりにこれらの句の核にあるものを表現し直すと、時間の中にあるリアリティ、突き詰めていけば、日常の時間性そのものではないかと考えています。まだ漠然としていますが、50句終わった後に、何らかの明示的な川柳観を書ければよいな、と自分でも期待しております。

(作者名の後ろのデータは掲載の号数と、a=アクア・ノーツ(同人雑詠欄)、w=ウィンド・ノーツ(投稿欄)、k=課題吟、を表す。)

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ひまわりになるまで泣かす黄のえのぐ    東おさむ 第20号w

川柳には擬人法がよく用いられており、成功例も多いようだ。俳句では擬人法はおおむね稚拙な結果に終わるように見受けられるので、こうした点も二つのジャンルの差異を論じる際のアプローチになるかと思う。上の句では絵の具が擬人化されているが、そこで想起されるのはあのお馴染みのゴッホの絵である。擬人法は人間以外への感情移入として、世界への科学的観点からすれば誤ったアプローチと批判されもするが、私たちの生のあり方からすれば感情の付帯抜きでの知覚そして表現はありえない。絵画に塗られる絵の具の筆触ひとつひとつは、例えばゴッホのような画家の場合、ひまわりの形態を表す以前に、世界との具体的な関わりそのものである感情である。それが世界の像へと近づいてゆくときの軋みが、この句では「泣かす」と主体的行為として表現されているのだ。

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ほどかれてゆく山コーヒーをもう一杯     筒井祥文 第5号a

「重層的な世界観」と初めに書いたが、この句はまさにそれに当てはまると思う。一読、「山」には現実の山のイメージが浮かぶが、読み直してみると、喫茶店か自宅か、テーブルの上に書類を山積みにしてこなしてゆく、という日常的な光景が描かれている。このダブルイメージの効果を生んでいるのは、川柳独特の省略(仕事、書類、という現実の文脈を示唆する言葉を隠している)が、ひと目では気づかれないかたちで仕組まれているからである。また、音韻がここでは絶妙に構成されていることにも注目。前半に用いられる母音はおo音やa音が多くおおらかなゆったりしたリズムを感じさせる(「ほどかれてゆく」の字余りと平仮名表記もこの効果に貢献する)。そこから後半はⅰ音でリズムを収束させている。このリズムの波と、「山」の茫洋とした存在感と一時の休息のイメージが、日常を流れる時間のリアリティを伝えているのである。

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かがやいてうつむいている竹のざる     畑美樹 第10号a

描かれた光景としては、使った後で洗われて乾燥されている竹の笊がある、ということでしかない。しかしこの光景が鮮やかに想起され、また単に笊が置いてあると言うこと以上の実在感、その光景をとりまいて存在する世界の感触まで伝えてくる気がするのはどうした訳だろう? ここでも鍵は擬人法(「うつむいている」)にありそうである。この通常は人間の姿勢を表す動詞が差し挟まれることで、体感を通して、語り手(読み手)が一気に「竹のざる」に一体化してしまうのである。最初の「かがやいて」が外部からの視角をつよく示唆していることが、この一体化に対する読み手の構えを解いていることにも注目したい。言い換えれば、この句を読むとき、私たちは、輝きの中にある客体を眺めながら、同時に体感としてその客体を自身でもあるものとして把握するである。主客融合、というと簡単過ぎるまとめになってしまうが、日常においても、ふとした瞬間にこのようなことがあると思わせるところに、一句の強さがあるだろう。

29

山繭は宇宙から来てそこに在る        古谷恭一 第10号a

現実には、「そこに在る」「山繭」が「宇宙から来」たものだ、と考えたということだろう。ところがそうした想定の流れを反対に遡るだけで、奇妙に説得力のある不思議な表現が出来上がる。もちろんそれは「山繭」という木の葉をもちいて自らの小宇宙を作り上げる虫に対する驚異の念、そしてそうした存在を作り上げ、生かしめている宇宙というものを発見した喜びが背景にあって成立するものである。痛快なのは、いかにも詩的な言葉の仕掛けを駆使することによってではなく、表面上はあっさりと散文としてもありうる一文で詠みくだすことで、読者にそうした驚嘆をストレートに伝えているところだ。この「そこに在る」には不意をつかれる。

30

水の匂いの魚の匂いのする薊       河瀬芳子 第11号w

「の」の繰り返しがだまし絵のような独特の効果を生んでいる。「水の匂いの」が「魚」にかかるのか、それとも「魚の匂いの」と並行して「する薊」へとつながるのか。どちらの読みも可能であるが、この場合、こうした読みの多様性が句の弱さになっておらず、逆に、「水」と「魚」の意味的な距離感から、言葉の表現にしかない豊かなふくらみを生み出しているように思う。それが、「水」「魚」のイメージからまったく離れた「薊」への飛躍に説得力をあたえ、そうした「薊」を像として現出させているのだ。読み手は句末の「薊」に至って、もう一度、「魚」へ「水」へと読みを遡らせるだろう。そして、「水」「魚」「薊」が自分のイメージの中でも驚くほど親しげなものになっていることに気付くのである。

31

穏やかな湾パン種を捏ねようか       植田眞佐美 第14号w

前半のゆったりとしたイメージと、「捏ねようか」の修辞疑問による誘いの広がりがあいまって、575定型にきっちりと収まっているのに、せせこましくない大きなリズムを感じる。「穏やかな湾」の後に切れて飛躍があるが、「湾(ワン)」→「パン」の音のつらなりが生きていて、納得させられる。「穏やかな湾」は時の流れが止まっているようにも見えるが、しかしその背景にはしっかりと、「パン種」のなかで密やかに進む発酵のように様々な流れが進行している。この句はそのことを、大げさでない落ち着いた言葉づかいで把握し、提示している。読後のこるのは、遠い期待もふくみつつ、時の流れをみずからに受容する感覚である。

32

朝日の当たったところから渦になる      前田ひろえ 第15号w

朝は夜から昼に移り変わる過渡の時間。夜には夜の、昼には昼の事物の秩序があるが、この句はその一方がくずれ、もう一方がまだ十分に現れていない時の不安感を表現している。夜を混沌の時間とする見方は多いが、実のところは、夜間は外部の世界を締め出して内面へ、自己へと沈潜できる時間。その意味では安定しているともとれる。対して、昼は外面へ、社会へと、自らのコントロールを外れた力へと開かれてしまう時間と考えられる。この句の「渦」のイメージは、夜に静かに紡いできた自らの世界がほどかれてゆく感覚を表現していると思う。「当たったところから」には最後にはすべて「渦」になってしまう、という諦めが表れているだろう。もっとも昼になってしまえば、社会的な意味で安定した自己が活動を始め、「渦」の感触は消えてしまうのではあるが。

33

血は透けて氷菓へかざす面灯り        くんじろう 第27号a

「面灯り」はここでは、顔がほのかな光に照らされているところ、と読んでおく。そうして照らされた顔にうっすら血が透けてみえている。前には、こちらも氷の裏にうっすらと色を滲ませた氷菓子が置かれている。一読、繊細な詩情が感じられるが、それはどこから来るか? 「血は透けて」には危うさを、「氷菓」にははかなさを、私たちは読みとるだろう。そしてその二つがお互いに照らし合うように置かれることで、ありふれた光景にある危うさ、はかなさが「透けて」見えてくる。ここに再び「危機感」を読みとることができるが、批評や危機といった言葉で表現するには余りにも繊細なイメージである。ここにとりあげた50句の中で、もっとも美しい句であると思う。

34

人力の飛行機がとぶ訳詩集        小池正博 第8号a

不思議な挿し絵のような印象がある。現実から浮遊したような感覚と言ってもよいが、句の中の世界自体が「訳詩集」という本の中の出来事なのだ(俳句の読者なら「とぶ」と「訳詩集」の間で切って読むかもしれないが、この句は繋げて読むほうが面白い)。さらに、「詩集」ではなく「訳詩集」である、という点でさらに距離感が生れている。また、「人力の飛行機がとぶ」は少し昔(19世紀~20世紀初期?)をイメージさせる。「訳詩集」の中に「人力の飛行機がとぶ」光景が描かれている。十分ありえる光景であるが、そうした光景を読む私たちは、現実と言葉とが生み出す配置のなかで、今の現実とは異なった拡がりのなかへ心を遊ばせるだろう。虚構と現実感がバランスよく配された、読みを広く楽しめる一句。

35

鉄鉢に山鳥の尾の火照りしたたる     吉澤久良 第11号a

引喩(アリュージョン:先行の表現から部分を引用して用いること)は伝統的に川柳の十八番だが、ただしそれと主観性の詩情とを合わせて表現することは、575の長さではかなり困難である。引喩の部分が含む意味、文脈が重すぎて、残りの部分はそれに対する批評という態度で書かれることが普通なのだ。上の句から私は、山頭火の「鉄鉢のなかにも霰」、人麻呂の百人一首歌を読みとり、また「火照り」も「したたる」もいかにも文学的表現であり、一種の引用と考えても構わないと考える。つまり、この句全体が日本詩歌の引用によって組み上げられている、引喩によるコラージュなのだ。面白いのはここまで徹底すると、一つ一つの引喩の特定の文脈は解体されて、日本語表現の積み重なる層の、その存在感だけが一句として重々しく立ってくる。

36

オフェリアよ川が狂っているのです       進藤一車 第14号a

これも引喩の句だが、こちらはストレートにテーマがよく見える引用になっている。オフェリアはシェイクスピア『ハムレット』のヒロインの名。狂気を演じる恋人ハムレットに突き放され、さらに父親を殺されて正気を失い、ついには川で溺死してしまう。しかしこの句は、オフェリアではなく、「川」こそが狂っているのだと言う。『ハムレット』の有名な一節、「時間の関節が外れている Time is out of joint.」というハムレットの台詞も連想させる。したがって、一句の読みは「川」はとうぜん「時間」のテーマも暗示している、と進むだろう。そこからさらにこのテーマ「狂った川(時間)」は、引喩で表現されることで、『ハムレット』やこの句に限定されることなく、むしろこの世の常態として示されている、と読んでみたい。「~よ~です」という語りかけの文体に痛切な響きがある。

37

閑かさや亜蝉の振る丸い腰           重森恒雄 第16号w

これもまた一種の引喩であるが、むしろパロディというべきだろう。元ネタはもちろん芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」。芭蕉の句では「蝉の声」があることで辺りの静かさがいっそう際立つ、ということだが、上の句では、蝉は「亜蝉」(鳴くことができない蝉)、辺りはじっさいに静かなのである。その静けさのなか、鳴くことができないのに懸命に腰を振っているこの蝉は滑稽だが実にもの哀しい。とはいっても、それだけに終わっては単なる感情移入のべたべたの句になってしまう。よって、腰を振る蝉に性行為をしている人間の姿を重ねて読むように、川柳作家によって、こっそりと味付けがほどこしてあるはずである。

38

自転車が湾をゆっくり出て行った       樋口由紀子 第24号a

仕掛けは単純。「船が湾をゆっくり出て行った」の「船」を「自転車」に替えただけの句である。しかしそこから立ち上がるイメージ、世界観は驚くほど豊かである。ひとつには、「自転車」が主語になることで、場面である「湾」との関係が把握できなくなる効果がある。これによって、遠近法やサイズ感が狂ってしまって、イメージされる世界が現実とつながりをもちながら、まったく別の感触のものに変わるのである。副詞「ゆっくり」も効いている。空間のみならず、時間の感覚も、この形容があることで逆に、とらえがたいものとして表れてくるのだ。「出て行った」の過去形には、私は(言葉の世界で)起こったことを投げ出すだけよ、と言いたげな作者のトリックへの意識がほどよく感じられて楽しい。単純ながら言語による表現の面白さにあふれた句である。

川柳や俳句の批評で、「コトバ川柳」、「コトバ俳句」などの表現を聞くことがあります。従来の客観世界の描写(写生)に基礎を置くスタイルと対比して、言葉で作られる世界の面白みに重点を置いているように見える作品を指す、と簡単に理解しておきますが、現代の表現においてひとつの傾向として、良い意味でも悪い意味でも注目されているように思います。ただし、すべての俳句や川柳は(当たり前のことですが)言葉で書くわけで、例えば、俳句の純粋写生句としてよく取り上げられた「甘草のとびとびの芽のひとならび」(高野素十)が、「と」音と「び」音の繰り返しに面白みがあるように、コトバ川柳(俳句)とそれ以外という区分には曖昧なところがあります。

では、近年になって言葉による面白みがうたわれ出したのはなぜか、ですが、大ざっぱにいえば、私たちのもつ客観的世界像自体が揺らいできたからではないか(まあ、特にオリジナルな議論ではないですが)。句作の前に、私たちを包みこんでいる世界が一つの次元に収まらないかたちで迫ってくる。表現はどういうレベルかは場合によりますが、そうした刺激に対する反応ではあるでしょうから、自然と、言語表現のなかにもそうした複雑さやあやといったものが反映され、言葉による表現のポテンシャルを追求することになる。またより積極的な姿勢でそうした世界を捉え返そうという作家も出てくる、ということでしょう。

『バックストローク』湊50句選PDF

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One Response to 川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞(3)   湊圭史

  1. pavenue より:

    選句の現代川柳には迫力すら感じ目からウロコでした。実は、私、web詩誌【AVENUE】 http://plaza.rakuten.co.jp/izchan2010/ の編集担当でして、詩人のお1人から「川柳とのコラボ詩」というお話を頂いております。凄い50選があると、その方にこちらをご紹介したところ、すっかり話が前進いたしました。個別の句は挙げずに、「『バックストローク』湊圭史さんの現代川柳50選に寄せて」として、出典にこちらを記すつもりです。そこでお願いなのですが、掲載記事(作品)のヘッダー部分にこちらへのリンクを貼ることを許可いただきたいのです。こちらへのリンクを貼ることに差し障りがある場合には、どうかお知らせください。その場合は、(リンク無しの)出典記載とさせていただきます。ご多忙とは存じますが、どうかよろしくお願い申し上げます。

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