古谷恭一論 -皮膜の内側の〈情念〉-   吉澤久良

Ⅰ.負の衝動の外在化


板の間を匐ってくるのは母の髪

冬の月 溲瓶に音す黒い父

煮凝りを掬って父が老けはじめ

『セレクション柳人15 古谷恭一集』で最初に目につくのは、父母(特に父)の像である。前掲句は『枕木』冒頭の三句であり、古谷恭一の作品にふれるとしたら、おそらくこの三句を避けて通れない。「和解できなかった父」(『古谷恭一集』巻末の「略歴」)に対する葛藤や苦悩は、古谷恭一にとって重いテーマであっただろう。「黒い父」の不気味さ、また、「匐ってくる」「母の髪」のおどろおどろしさは、べったりと皮膚に貼りついてくるような血縁のやりきれなさを暗示している。古谷恭一は、その中で自分の精神の原形質を成形していかざるをえなかったため、自己の存在を無限定に肯定することを出発点にできなかった。

昔むかし屏風の裏に産まれたり

木の瘤が生まれんとしてわが軋み

自己の生誕は「屏風の裏」という心理的に貧しい風景として詠われる。その姿勢の背後には、「生まれてきてすみません」という、太宰治の自己否定、疎外感が透けて見えるかのようだ。また、木に「生まれ」るのは、新芽や花ではなく、ごつごつした「瘤」であり、それは祝福ではなく、「わが軋み」として捉えられている。ここにも自己の投射がある。

騙された方も机を叩かれる

慰謝料を下さい烏あげは来る

「騙された方」は被害者なのに責められる。そして、身に覚えのない「慰謝料」の請求を突きつけられたりする。世界は理不尽なものとして立ち現れてくるのだ。そして、生きていくということは、その理不尽を理不尽なまま受け入れざるを得ないということである。だから、古谷恭一の作品では、そのような世界に対する負の衝動が、攻撃的な形で間歇的に噴出する。

花降ればさらに刺客を放つべく

桜散ってむっくり起きるテロリスト

蝶の翳 貌半分を焼き尽くす

長男に生まれ落ちたり草を薙ぐ

不可解な勃起が滝を遡る

古谷恭一は、「花」という美の頂点から、「刺客」や「テロリスト」の攻撃性に飛躍する。この攻撃性には非合法の悲愴さが漂っているため、「花」は屈折した凄絶さを帯びる。そして、その攻撃性は、他者に向かうというよりは、むしろ自己破壊に向かう。「貌半分を焼き尽くす」蝶というイメージはいたましい。負の衝動は、カリカリと音を立てて、古谷恭一の心を噛むのである。この衝動は自己の深みから押し寄せてくるものであるため、古谷恭一自身もうまくコントロールしきれない。だから、「草を薙ぐ」ことなど無意味であるとわかっていても、「長男に生まれ落ちた」代償行為としてやむをえないのだ。同様に、「滝を遡る」「勃起」も「不可解な」ままで放置しておくしかない。翻弄される者のやりきれなさと虚脱感がある。

しかし、日常生活を送っていくためには、とりあえずそのような衝動と折り合いをつけていかねばならない。多くの人は、満たされぬ思いのまま、なんとかそれをうっちゃり、やり過ごそうとする。たとえば、夜になるとやってきて村人をさらっていく、ひたすら怖れることしかできなかった正体不明の魔物でも、それを人食い虎と名づけることができれば対処する道が開ける。それは、名づけることの力、ことばによって外在化し認識することの力である。〈思い〉を言葉に定着し外在化させることがカタルシスになることを、古谷恭一は知っていたのだろう。こうして、句は書かれた。文語の荘重な様式美をまとい、五七五の定型へ言葉を成型する修練を経て、刃物のように鋭利な古谷恭一作品が生まれたのである。



Ⅱ.少年〈物語〉

「それにしても、なぜ子供世界なのか。それは、文明社会の自己喪失してしまった大人たちの失地回復。教育の(ママ)よって 徐々に体制(文化)に取り込まれていった子供の行き着く先が自己喪失の大人世界であるとすれば、子供世界をまさぐることによって、自己回復は可能かも知れぬ。」(古谷恭一「小池正博―その阿頼耶識の世界―」『川柳木馬』第一一〇号)

これは、古谷恭一の小池正博論からの引用であるが、この評はむしろ古谷恭一自身について語っているのではないかと私は感じてしまう。

枕木に少年の耳あつくする

少年は目覚めるパリの飾り窓

繃帯の白さ恥じ入る美少年

少年の化粧妖しく祭り笛

はにかめば少年の日の桜あり

過去とは、客観的にはすでに既定の事実であるが、主観的には真実であるとは限らない。事故で息子が死んだと知らされても、「あの子は絶対生きている」と信じている母にとって、息子の死は主観的には真実ではない。自分自身が受け入れることで、事実ははじめて真実となるのである。この心理的メカニズムによって、決定されているかと見える過去を、新たな〈物語〉として創造する余地が生まれてくる。過去の事実(記憶)のどこにスポットライトを当てるか、というポイントの置き方の差によって、〈物語〉を再構築できるのである。だから、どのように捉えたいかという思いの強さによって、過去は変えられる。こうして書かれたのが、「少年」をテーマにする、ガラス細工のように繊細で端正な作品群ではなかったかと私は想像している。

千年後真昼の樹下に覚めるべく

転生や森の泉に映る鹿

右にあげた句の転生願望も、この少年〈物語〉の変奏曲である。この二句にさらさらとした透明感があるのは、現世の現実から心理的に離陸しているからだろう。

しかし、少年は好奇心だけでバッタの羽をちぎったり、友だちの身体的な欠点を無慈悲にえぐったりする残酷な存在でもある。だから、「子供世界をまさぐることによって」「自己回復」が期待されたとしても、その「子供世界」が恣意的に再構築された〈物語〉であれば、「自己回復」は不可能である。なぜなら、そのようにデフォルメされた「繊細で端正な」少年〈物語〉は、少年の天使性だけを取り出した〈物語〉であり、実はノスタルジアに過ぎないかもしれないという危うさをはらんでいるからだ。ただし、情緒的な慰藉をもたらすことはできる。それだけで充分であると思うか、そうではないと思うかは、それぞれが川柳に求めているものの多寡による。



Ⅲ.風土への帰還

古谷恭一にとって少年〈物語〉の位相は、土佐という風土の位相と同質のものだろう。

南国に誕れてあくびばかりして

膝を抱く土佐は遠流の国なれば

もちろん、これらの句から、地方性による疎外感や哀感を読み取るのは間違ってはいないだろう。しかし私は、これらの句から風土に抱き取られている作者の安堵感を感じてしまう。「あくびばかりして」「膝を抱く」という表現には、現代社会の効率化された時間とは異質なゆったりとした時間が流れている。土佐という風土と一体化することによって、情緒的な安定がもたらされるのだ。そして、このような風土への一体化は、すでに第一句集の『枕木』の時点で、〈不在〉という感覚によって準備されていた。

寝返りを打ち放浪がまだ続く

駅の椅子 鬼ごっこにはもう疲れ

神々も滅び樹海となってゆく

すべての存在は、「放浪」に「疲れ」、「樹海」が象徴する大いなるものに滅却されていくのだ、という諦念(あるいは自足)がある。それは、句でも散文でも遍路を取り上げている古谷恭一の土俗的宗教性とつながっているのだろう。

風土と一体化した古谷恭一は、地方性風土性を対象化する方向には進まなかった。対象化のためには、対象との距離が必要だからだ。風土と一体化する自分を、醒めた眼で見据えるもう一人の自分が必要になってくる。その醒めた眼を獲得し、地方性を問題意識としてとらえて相対化しえていたならば、そこには中央というものへの対立・批判という構図が必然的に表れたはずである。〈中央と地方〉という概念レベルの批判意識は、個人がアイデンティティーを喪失し疎外されつつある現代社会の構造を対象化する視点を可能にしたかもしれない。

ともあれ、古谷恭一は、負の衝動の噴出とその反作用のような慰藉への志向との間を振り子のように動きつつ、自己の内面へ螺旋状に降りていく。その過程で、風土や少年は、いわば牽制球が来れば帰塁すべき一塁ベースのような働きをしている。引き返すことのできる安全地帯があるという心理は、知らず知らずのうちに、新たな可能性への挑戦の意欲を減退させるだろう。その結果、作品の純粋性を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほど、その自己完結性によって、作者に対しては作句における自家中毒的な閉塞感を、読者に対してはもどかしさをともなう作品への疎遠さをもたらす危険性を潜在的に持つことになった。このことを次章でもう少し考えてみたい。


Ⅳ.〈内向性〉

吊革に屍さらす朝な夕な

満月にこの全身の剛毛や

能面を外すと膿がしたたり落つ

寝袋の中から霧を吐きつづけ

荼毘の火を遠巻きわれら獣にて

右のような句をどう評価するかが、現代川柳の〈読み〉の課題であると私は考えている。現在の川柳界で流通しているのは、「自分の〈思い〉を語る」ことによって〈共感〉を求める書き方(あるいは読者が感じる読み方)であるので、これらの句の評価は川柳観によって大きく左右されることになる。 

実際に、「『吊革』につかまって通勤している人々が『屍』のように自分の生を失っている」という状況はある。しかし、「屍」という語に込められた濃厚な情緒性によって、句は「吊革」につかまって通勤している人々の生のありようについての認識へと発展せず、作者個人の内部の〈情念〉に向かって収斂していく。同じように、「全身の剛毛」も、「能面」の下の「膿」も、「寝袋の中から」吐く「霧」も、作者の個人的な心象スケッチと理解できる。「寝袋の中」という語がかもし出す、何かに隔てられているかのようなイライラ、また、「遠巻き」という語の距離感は、作者が現実に対して感じている疎外感や無力感を暗示している。注意すべき点は、この距離が作者と現実との距離であって、作者と作品との距離ではないということだ。疎外感や無力感の正体は、ルサンチマンの呪詛であり、読者はこの暗い〈情念〉の上には、新たな認識を積み上げられない。別の言い方をすれば、作品と作者との距離がないため、読者が作品を受容しようとすると、作者の〈情念〉をまるごと受動的に受け取るしかないのだ。〈情念〉は、作者から発し、読者をかすめただけで、また作者へと還ってくる。だから、読者にとってみれば、これらの作品は皮膜によって隔てられた世界なのである。

そして、さらに深刻な問題がある。「自分の〈思い〉」の確実性が揺らいでいるという現状である。現代社会では語るべき自己は空洞化し、私たちのアイデンティティーは、いまや無残なほど不明瞭になってしまった。表出すべき〈思い〉そのものが、もはや確実ではない。その結果、その〈思い〉がもたらすはずの〈共感〉、いいかえれば共有できる感懐や感覚を持つことが困難になってしまっている。もはや、〈思い〉を語ることによって〈共感〉を求めることそのものが、成立しなくなっているのである。



Ⅴ.読者へ

マンボウの口神様が餌をやる

この句の書き方は、前掲の「吊革に…」をはじめとする句の書き方とは違う。読者が参与できるのである。『古谷恭一集』では、このような書き方の句が、多くはないが、『枕木』「晩年」「羅生門」へと伏流水のように書きつがれている。小さい口しかない「マンボウ」のような私たちにも、「神様」は「餌を」くれる。この構図は作者自身の姿であると同時に、私たちの姿でもあると感じることができる。なぜそう感じることができるかと言うと、作者と世界との関係性が抽象化されているからだ。その抽象化をもたらしたものは、作者と作品との距離にほかならない。

実に静かにリンゴ壊れてゆくのです

語らねば語らぬままに火炎土器

「壊れてゆく」「リンゴ」や「語らぬまま」の「火炎土器」に、読者が自分たちの姿を発見することができるのも、事情は「マンボウ…」の句と同じである。これらの句のモチーフは、「能面を…」や「寝袋の…」の句と大きくは変わらないと思われる。しかし、ここでは、〈思い〉の表出にこだわる限り絡みついてくる情念の炎が抑制され、〈情念〉の外側で現実を言語化しようとする姿勢がある。ここにあるのは、情緒的把握ではなく知的把握であり、作者は現実を〈情念〉の内に取り込むのではなく、現実を的確に見据えて読者に手渡そうとしている。だから読者は、これらの句から、生きていくことの焦燥感を読み取ってもよいし、私たちの生のありようがすぐれたものでもみじめなものでもないという冷徹な認識にたどりついてもよい。読者は作者の〈思い〉を読み解くことにとどまるのではなく、作者から手渡された「マンボウ」や「リンゴ」の上に、様々に思考をめぐらすことができるのである。このように、句に触発されて読者が自由に思考することが、〈読み〉の実質にほかならない。句を手渡された読者は、自分にひきつけた創造的な読みに、自分の責任で踏み込まざるを得ないだろう。そしてその結果、〈読み〉はおそらく不可避的に作者の〈思い〉を逸脱するだろう。そのような主体的な〈読み〉こそ、古谷恭一の可能性を逆照射するはずであり、現代川柳の新たな地平を切り拓くものであると私は考えている。

初出: 『木馬』113号(2007、夏号)


コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。