現代川柳とは何か?―「なかはられいこと川柳の現在」を読む―   湊圭史

 「川柳を中心にした」短詩サイトとして、この s/c を立ち上げたわけだが、現代川柳をどうイメージすればいいのか、私自身も正直言ってよく分からないところがある。現代短歌・現代俳句について私は外部者だと考えているが、それでも現代川柳よりは傾向や全体像というのがぼんやりとは浮かべることができるように思う。川柳ジャンルにおいては、「川柳の奥深さ」といった経験則からの実感の吐露か、「誰でも出来る」といった類の一般向けの惹句、また、歴史的発展をどこかで止めて割り出したジャンル規定には出くわすものの、現代までの発展に則って現在の社会と対峙するようなジャンル像で説得力のあるものにはなかなかお目にかかれない。
 これは、私が川柳を初めてまだ二年足らずの初心者であるのも一因かも知れないが、「長くやれば分かる」という経験一辺倒の姿勢で、新しく参入したものに手掛かりとなるパースペクティヴもまったく見せられないようでは、ジャンルとしての発展も望めないのではないか。要するに、外部を意識した自己省察があまりにもなさ過ぎるのだ。少なくとも、同じく言語表現を志す他ジャンルの実践者の疑問に対して、また、川柳の作品の一部を面白いと感じて参入しようとする新人の好奇心に応じて、川柳ジャンルの内部の論理をいたずらに単純化することのないかたちで、川柳はいまこういう姿勢でこういうところを歩いていると示すぐらいに、思考と言葉を鍛えておく必要があるのは間違いない。
 2001年に出版された川柳句集、なかはられいこ『脱衣場のアリス』は現在の川柳を考える上で欠かせない作品集であるが、巻末に収められた座談会「なかはられいこと川柳の現在」が上記のような問題を考える上でさらに示唆的である。座談会参加者は、柳人の石田柊馬と倉本朝世、それに歌人の穂村弘と荻原裕幸である(荻原が司会をつとめている)。そしてこの、示唆的である、というのは、柳人二人の側の発言によるものでは残念ながらなく、歌人二人の旺盛な好奇心と鍛えられた批評意識による追求による。石田による川柳ジャンルの展開の簡潔な要約など、川柳側からの発言の資料的価値もあるが、全体の印象としては、歌人二人が投げかけた川柳ジャンルの自己意識に対してヒントとなるアイデアを柳人二人がしっかりと打ち返すことができず、この座談会がふくむ川柳ジャンルへの洞察は不完全なまま残されている、と感じられる。
 ここでは、出版から10年を経ようとしている現時点で、もう一度、穂村と荻原の問いかけを拾い直し、それに私の考えによって答えを出すことを試みて、なかはらの句集が指し示していた川柳ジャンルの変遷と普遍を、川柳ジャンル外部にも開いたかたちで提示できればと思っている。あらかじめまとめておけば、この座談会においては、川柳ジャンルに対する問いも答えも、もっとも鋭いものは、歌人二人の側から出されていて、なかはらの句集(そしてそれを代表とみて現代川柳)には定型によって言葉の強さを出す以外の価値観も混在している、そして、その混在状態(を許す/要求するところ)が川柳ジャンルの特質なのでは、ということだ。
 座談会(口頭での会話)をという型式上、一つの発言にも様々な論点と可能性があることと思うので、私がその内の一部を絞って論を展開していっていることが分かるように発言を長めに引用させていただいたことをあらかじめお断りしておく。できれば、なかはられいこ『脱衣場のアリス』所収の座談会全文をご覧いただきたい。(カッコ内は、『脱衣場のアリス』のページ数。)

 *

 座談会は、司会の荻原が参加者に、なかはらの句集を「単純にわかりやすく解説するのではなく、川柳史の観点から、また文芸の観点から、鋭く解剖していただければ幸いです」と求めるところから始まっている。この点に関して、柳人二人の回答はなかはらの川柳の新しさとその根拠をしっかりと捉えている。

倉本朝世 言葉遣いを見ていても、いろいろなアイコンがならんでいるパソコンのデスクトップみたいだと思いました。次元の異なるものも、すべて同じ階層に一緒にならんでいるような面白さがあります。楽しんでつくっているのが強く伝わってくる、だから読んでいるほうも楽しめる、そんなふうに思いました。(109)

石田柊馬 句集全体を通しては、きわめて一般的、常識的なことになるんですけど、ものを書くという行為がその書く人にもたらす自己発見、認識の更新みたいなものが、急速に深まって、速くなってゆくという時期の句集ができたなと、そんな印象です。(112)

ここで述べられているのは、それまでの自己の境涯を現実に即して歌うという近現代文芸川柳の流れから離脱して、様々なレベルの言説に取材した言葉そのものの面白さを前面に出しつつ、句作において新たな「自己発見、認識」を見出してゆく、というまさに今現在の川柳の水準へとつながるなかはらの句集の特質である。
 気になるのは、二人ともせっかくの把握を「~のような」「~みたいなもの」とボカしているところ。「次元の異なるものも、すべて同じ階層に一緒にならんでいる面白さ」や「ものを書くという行為がその書く人にもたらす自己発見、認識の更新」があると言いきるべきではなかったか。しかし、もっと問題含みなのは、「第一句集と比較して、どんなところにそれが表れていますか」との荻原の質問に対する石田の返答である。

石田 第一句集は、いわゆるそこらへんのカルチャーセンターにお通いになっているおばちゃんが、その面白さに目覚めていろいろやった、第二句集は方向性が急速に作者に見えてきてまとまったといふうに見ました。彼女にとって、川柳が川柳であるための川柳性とはなんだというところにぶつかったんだと思います。(112)

座談会という場の限界があるのかもしれないが、これでは「どんなところに」という問いに答えられていない。なかはらが「どういう過程で」そこに辿り着いたかの、かなり大ざっぱな説明に終わっている。また、「川柳が川柳であるための川柳性」は石田の評論でよく使われるフレーズであるが、問いかけを放っている外部者に向けての批評の言葉とは言えないだろう。なかはらの句集が示す方向性とは何なのか、それが「川柳が川柳であるための川柳性」とどう切り結んでいるのか、座談会の初期の段階とはいえ、ここで語られるべきではなかったかと思う(また、これ以後でも十全な対応がなされているとは思えない)。
 次は、穂村と倉本のやりとりを見てみる。

穂村 この句(〈えんぴつは書きたい鳥は生まれたい〉)の持っている衝撃力と、さっきあげていた、〈五月闇またまちがって動く舌〉の「舌」が持っている衝撃力では、もう格段に「舌」のほうが強いと思うんです。あるいは、/  開脚の踵にあたるお母さま  /という句の「お母さま」が持っている衝撃力は、もしそれを測る機会があれば、非常に高い値になると思うんです。ぼくの価値観では、その衝撃力の高さという点で後の二句がいいと思うんです。ぼくが、『散華詩集』と『脱衣場のアリス』を読んだ印象からすれば、「鳥」はかつての名残りのようにしか見えないんです。/これは想像なんですが、「またまちがって動く舌」とか、「踵にあたるお母さま」という句は、フォルムの要請というか、定型で書いてこられて、その中でつかんできた言葉なんじゃないか。それに対して、「えんぴつは」の句は初めから持ってらしたある世界観みたいなものではないでしょうか。人間の地金というか、実はこういう人なんじゃないかとい感じがするんです。/ぼくはこういう内容がいけないとは思わないけど、これをフォルムの中で提示されたときに、まったく反論の余地がないという点で、逆に意味がないんじゃないかというふうに思うんです。
倉本 もちろん、言葉の衝撃力という点ではもっといいのがたくさんあります。でも、等身大の彼女が一番よく表れているのは、やっぱりこれだと思うんです。(120-121)

穂村はこの座談会中一貫して、(後で本人、また荻原による指摘があるように)穂村自身の短歌的価値観において「面白い/面白くない」句を分けつつ、否定的な評価を下した句が句集に収められた(つまり、川柳ジャンルでは一定の評価をされるべきだと判断された)根拠を問いかける姿勢をとっている。穂村の基準というのは端的に言って、「言葉のレベルでの強さの追求」に尽きている。言い換えれば、定型の枠の中で言葉を追求することによって、現実や現実の中の「私」の言葉の水準を越えた強度をもつ言葉が表れ出ることが創作の意味だという論理である。
 倉本の返答は、残念ながら、座談会の最初で示された見解からはかなり後退した視点から発せられている。「言葉の衝撃力」、先の発言で言えば、を読みとっていたはずなのに、句集の中心を見出すときに、「等身大の彼女」という現実の「私」へと引き寄せて考えてしまっているのだ。倉本のこの発言は、先程引いた石田の発言と共通する点がある。簡単に言ってしまうと、石田も倉本も、なかはらが川柳というジャンルを見出し、新しい書き方を見つけてゆく喜びの中でこの句集が生まれた、という「過程」について話している。対して、穂村の問いかけは、そうして生まれた作品がなぜ価値があると見なされるのか、というものである。作句の努力や喜びといったものが、作品の価値を保証するものではない、という当然の批評的前提に立てば、柳人二人の応答は的外れだと言わざるをえない。果たして、柳人からの返答に満足できなかったからだろう穂村は、自分が「面白くない」と思った句が川柳において残される理由をさらに追及し、さらには、川柳ジャンルの価値観についての自身の仮説を(あくまで控え目に)提出している。
 
穂村 それで、不思議なのが、いままでぼくが見てきた中で、一人の作家の作品集の中に、「踵にあたるお母さま」「またまちがって動く舌」と「洗脳[「授業中は寝てる洗脳されないように」]」「えんぴつは書きたい」というのが混在するケースはほとんどないんです。これは非常に不思議です。一人の作家の中で、なぜこんなことが起きるんだろう。/ぼくは、「お母さま」とか「またまちがって動く舌」という方向へどんどん行けばいいのにと思う、結果がどうなるのか、それはわからないけれど。〈えんぴつは書きたい鳥は生まれたい〉とか、第一句集の〈にんげんがふたりよりそうさみしいね〉は、ぼくにはどうしてもネガティヴにしか見えないんですけど、もしかすると、そこに見えていない価値観っていうのか、川柳の価値観があるのかな。/だとすれば、それが混在することに意味があるという価値観が、もしかするとあるのかもしれない。(121-122)

この問題提起に対して、荻原が補足している。

荻原 ぼくも川柳作家ではないので、よく似た感触を持っていますが、混在することは直接の価値というよりも、許容範囲なんじゃないかと感じます。一句の価値の外に、プラスアルファとしての要素を広がらせるのが狙いなのではないかな。作家や作品のイメージの幅を広げるというような。

まとめると、穂村としては自分としてはマイナス評価しかできない作品だが、それを掬いあげる論理が川柳にはあるのではないか、そして歌人二人ともが、それを価値観の「混在」を許す許容範囲の問題ではないか、とのアイデアを投げかけているのだ。かなり踏み込んだ発言といってよいだろう。(俳人と柳人のあいだで俳論・柳論になると、お互いの論理の全否定、あるいは、あきらめという名の黙認にあって、このように、「自分たちには分からないが、何か価値観があるはずだ」という追求にまで至らないことが多い。ここで、私がこの座談会を特に取り上げる理由が分かっていただけると思う。)
 そして、この点に対する石田の返答は次なようなものである。

石田 これは、場の要請というか、座の要請、その場によって思考レベルを上下させることが川柳には多くあります。
穂村 場というのは、読者ですか。
石田 句会とか、大会とか、そこに集まる人たち、その理解レベル、読解レベルです(121-122)

この発言も的外れではないだろうか。荻原や穂村が反応しているように、川柳以外のジャンルであっても、場の要請によって句の性質を変えることがある。挨拶性が要求される短詩ジャンルの場合では、ある意味当然といってよいだろう。ただし、ここで問題となっているのは、そうして生まれた作品を、レトロスペクティヴに句集としてまとめるときに、なぜそうした揺れが残されるのか、という点なのだ。各々の場に対応した句に差異があって、それが句集というそうした場からは離れた別の場においても繰り返される、その根拠はあるのか、そして、もしかするとそこに川柳の特性があるのではないか、と歌人二人は問うているのだ。荻原は結局、その問いに自分の仮説で答えてしまっている。

荻原 それが記録性の優先にせよ、本人の狙いがもっと他にあるにせよ、失敗している要素があるにせよ、自分の作品をある幅を持って提示できるのは、川柳がそれを許容しているからかなと思う訳です。/批判的な意見が集まっている句は、短歌では連作の地歌みたいなものなんじゃないでしょうか。短歌の連作では、メインになるテーマを全力で描いてみせる作品と、一首でも機能はするんだけど、全体の雰囲気を整えるために作る地歌というのが存在する。俳句ではあまり見かけない。地歌に似たものとして、川柳の中にこういう一句が幅を持って許容されているのではないですか。/「またまちがって動く舌」という句が百句ならんだら、ちょっと重い。むしろ、百句ある中のいくつかは、「えんぴつは」の句のようなものが入ってきたほうが、全体でのテーマの活性化がはかれるというようなことがあるんじゃないですか。意識的なもの、作為的なものかどうかははっきりと言えないけど、川柳はそういう書き方を許容している、感覚的になかはられいこはそれを活用しているという気がします。(123-124)

つまり、句集という場においても、川柳においてはそれぞれの場で生まれるようなばらつきが必要とされているのではないか、という仮説である。私としては、このアイデアは、俳句と川柳の特性についても、重要な示唆を含んでいると考える。よく知られていることだが、俳句は連句の発句、川柳は連句の平句(それが前句付というかたちで展開してであるが)を起源にもつ。荻原が言うように、地歌のような句を「俳句ではあまり見かけない」とすれば、後続の句から「切れ」て一句で立つことを求められた発句の性質を受け継いでいるからであろう。また、川柳で地歌的なものが求められるとしたら、連句における平句に求められるヴァラエティを持たせた展開がどこかで引き継がれているからではないか。
 本筋から逸れる、しかもかなり憶測的な話題に踏み込んだのは、次の発言を読むと、石田はこうした点(少なくともその可能性)を認識していたのではないか、と思えるからである。

石田 なかはらさんの句で言えば、/  いちねんや単三乾電池が二本  /というのがあります。このときに「いちねんや」という言葉、または「いちねんや」ということについてどのように考えるか、どのように感覚的にものが言えるか、と作者が考えている。さきほど言いましたように、「いちねんや」という言葉は古川柳の七七の場所に行っている、ということは、「いちねんや」ということについて、自分の感性は「単三乾電池が二本」なんだという、そこの飛躍、そこが川柳が川柳であるための川柳性の、一つの大きな要素であると、ぼくは思っているんです。その成功例がこんどの句集にはたくさんある。ぼくはいい句が多いなと思っているんです。/逆に、俳句が俳句であるところの俳句性という部分は、川柳の数十倍だか数百倍だか俳句を書いている方はいるけど、実は本当にはお考えになっていない。考えていないことが悪いのではなくて、俳句というのは、歌仙の発句であったということ、その性質だけにとらわれて、その性質を十分に活かしているというふうに見えます。ですから、金子兜太さんが川柳を機知とおっしゃった。これは三十数年ほど前、岡井隆さんとの共著『短詩型文学論』の中でおっしゃった。あのときには河野春三さんの名前が出ているんですが、機知[128-129]であるということは決して否定できないと思います。ただ、それだけじゃないんだというところに、この『脱衣場のアリス』があればいいと思いますし、あると思います。(128-129)

展開していえば、「俳句というのは、歌仙の発句であったということ、その性質だけにとらわれて[とらわれながら、かつ、とらわれることで?]、その性質を十分に活かしている」。それに対して、川柳は、歌仙の平句であったということ、その性質に十分とらわれていなかった、また十分に活かしきれていなかった。しかし、『脱衣場のアリス』ではその活用がうまく行き始めている、ということだろう。石田の言う「川柳が川柳であるための川柳性」がそう考えると見えてくる気がする。
 ただし、これでも十分でないことは、荻原の次の発言を見ると明らかである。
 
荻原 穂村さんの〈えんぴつは書きたい鳥は生まれたい〉は不可、〈開脚の踵にあたるお母さま〉は可とする発想、これは言葉の質感みたいなところに絶対的な価値の尺度を置いた発想ですね。短歌の話ですが、アララギ系のリアリズムと明星系のロマンチシズムというように対立するものがあって、どちらがいいのかを問うのとは違う。伝統か前衛か、文語か口語か、そうした尺度ではないんです。いまの短歌はある意味で何もかもが許容されている。そうした中で、しかし価値をはかろうとすれば、表に現れるイズムを離れたところで、言葉の強さの絶対的な価値観みたいなものから考えてゆくことになるわけです。それで出てきているのが、「鳥」は不可で、「お母さま」は可という考え方ですね。/川柳の中で幅があるのだと感じるのは、この短歌におけるなんでも許容される感じとは別のことで、むしろイズムにかなえば言葉の質の絶対的な価値みたいなところへはいかな[133-134]いのかなということでした。でも、石田さんの話を聞いていると、川柳性という絶対的なひとつの価値の尺度で何かをはかっている様子がある。そこが面白いですね。俳句に対して川柳を語っていないというのか、川柳性しか言っていない。ある意味では、川柳作家にとって俳句は存在していない。川柳に外はないわけなんです。/でも、実際のところ、穂村さんやぼくが、短歌に外がないという感じで絶対的な言葉の価値の問い方をするのとは少しずれている気もする。それはやはり、川柳の外には意識してもしなくても俳句があるからなんじゃないでしょうか。(133-134)

石田の発言がどこか割り切れなさを伴うのは、「川柳性」と言いながらも川柳というものをそれ自体のポジティヴな価値で規定することを避けており、同時に、他ジャンル(例えば、俳句)との対比においてイメージすることも拒否しているところだろう。後者の点は、「俳句・川柳エコール論」を述べる石田の発言にいちばんはっきり出ていると思われる。

石田 今の話を、ぼくはすごく厚かましくとらえていて、五七五という全体の中に川柳派と俳句派とがあって、その川柳派だと思っているんです。ぼくは川柳をジャンルではなく、エコールだと思っているんです。
荻原 でも、エコールということになると、川柳性による表現の価値は絶対的なものではなくなりますね。つまり、俳句だと称して秀でた川柳を提示したときに、駄句だということになるわけですよ。、そこが少し、川柳の外からはわかりにくいところじゃないかと思います。エコールの違いだとすれば、いい句は、呼び名が川柳であろうと俳句であろうといい句ではないかと思うのですが、川柳は川柳性を問われ、俳句は俳句性を問われるということになれば、それはエコールというようなものには思えないし、ジャンルよりももっと深いレベルでの本質的な相違があるようにも思えます。(134-135)

「柳俳エコール論」は座談会にも出てくる革新俳句の推進者で理論家の河野春三や松本芳味が唱えた見解であり、排他的なジャンル論よりは居心地がいいことは確かだが、外部には通じないということをそろそろ考えるべきではないか。単純に言えば、エコールのみの違いだけでずっと区別が続いてきたというのなら、むしろ「ジャンルよりももっと深いレベルでの本質的な相違」をそこに見るべきではないのか。おそらく、その地点まで深く掘り下げることなく、「川柳が川柳であるための川柳性」を外部に向けて展開し、また現在における川柳ジャンル自体の活性化につなげていくことは不可能なのではないか。
 この「柳俳エコール論」もそうだが、石田の発言にはなかはらの句集から川柳の先を見ようという視線と、これまでの川柳ジャンルでの川柳論・川柳観を紹介しようという意図が混じり合っていて、その点が歌人たちの好奇心に満ちた問いかけに対し、無意識的なはぐらかしになってしまっているのではと感じられる。例えば、次の部分。

石田 昭和三十年代に現代川柳をかなり先鋭的にやってくれた、河野春三や堀豊次さんたちの句集についての考え方は、川柳の句集を出す場合には時系列でありたいという、これは一つの川柳観なんです。かなり大胆な発言ですが、川柳というものを自分に引きつけての発言と思います。一人の人間像としてやっているんですね。
荻原 時系列と言えば、はじめに穂村さんから、『脱衣場のアリス』で、各パートのモチーフがはっきり見えたところが面白く読めたという意見がありました。そういう表現の在り方が、今までどのように扱われていたかわかりませんが、なかはらさんの句集の中では、あるかたちになって見えている。
穂村 これは、あきらかにそう読めという意味ですからね。このタイトルといい、冒頭の文といい、読者を誘導しようとする意図で付けられている。すると、それはぼくたちがふだん慣れ親しんだ価値観だからよくわかるのだけれど、川柳の句集は時系列でありたいとか、座によって表現が変わってくるっていうのは、見慣れない、聞き慣れない価値観なんです。いつも最高の場を想定して書けばいいじゃないかと思うんです。実際には存在しないほどの最高の場に向けて、最高の言葉で書けばいいんじゃないかと。それで驚異的なものを含まないものは、全部落としてしまえばいいじゃないかと、そういう発想になってしまうんです。
荻原 ぼくは穂村さんほどかたくなじゃないけど、かなり近いですね。(140-141)

河野春三や堀豊次らの「一つの川柳観」が紹介されているが、それがなかはらの句集に対してどういう位置にあって、また、否定的、肯定的いずれの効果があるのかがはっきりしない。『脱衣場のアリス』を読む限りでは、荻原や穂村が指摘するように、各章に付された短文(少し引用すると、「#1 からだとこころ、こころとからだ。うそをつくのはいつでもこころ。」「#2 いただいた箱はからっぽでした、おかあさん。」「#6 「ケイケンチを上げなくちゃ敵キャラを倒せないんだ」(翔くん5才)」)を見ると、なかはらの意図は「時系列」を重視する価値観とは、むしろ対極にあることがはっきりしていると思う。「一人の人間像」が企図されているのではなく、2000年代日本の「人間像」が困難になってゆく状況が、積極的に選択された皮相な枠組みも含めたかたちで提示されているのだ。
 では、他ならぬ、なかはらのこの句集について、川柳性はどこにあるのか、がここで話題となるべき点であったろうし、荻原・穂村の追求は正しくそこに向けられていると思う。正直言って困るな、と思うのだが、その問いに対する答えも、この座談会で一番説得力のあるものは穂村の発言の中にあった。

穂村 この句集をはじめに読んだとき、三、四人の作品が混ざっていて、さらに編集者がいて、一から七までを分けて編集した、というイメージを持ったんですね。「単三乾電池」とか、/  はつこいや月星シューズおろしたて  /とか、もっと飛躍してもいいんじゃないかと思って、他のもっと飛躍して、屈折した句と比べて、なぜばらばらに出てくるのかと思っていたのだけど、理由が見えてきました。むしろ、「月星シューズ」ではあまりにも詩的だという見方も出てくる。もっとベタな攻めもありうるということ。そのベタな攻めもあって、全体としてストレートがきて、フックがきて、アッパーがきてみたいな、その自在感というのが、トータルで川柳としての価値観になるのかと、なんとなく思いました。(143)

これは、先に荻原が「地歌」を例にあげて述べたところと共通する視点であろう。ここから、「最高の場」というものを想像のものとしても固定することなく、場から場へとフットワークを示しながら有効打を放っていく、その自在性が、ここで歌人が見てとった川柳イメージではないかと思われる。ジャンル内にいる人間からすれば、一面、一方的に映るかもしれない見解かもしれないが、『脱衣場のアリス』という一冊の読み、そして言語をもちいる創作家としての思考に支えられた、ひとつの説得力あるイメージであることは疑いえないだろう。また、こうした自由度を川柳がもつ、というのは、魅力的な視点ではないか。ただし、その自在性を句集としてレトロスペクティヴに提示する(しかも、その自在性が川柳ジャンルの根拠だとすると、それを決して消すこと無く!)場合に、どのような戦略が必要か、というのは、「川柳が川柳であるための川柳性」を「ジャンルよりももっと深いレベルでの本質的な相違」に行き当たるまで追求して問うていくべき課題であろう。

One Response to 現代川柳とは何か?―「なかはられいこと川柳の現在」を読む―   湊圭史

  1. あらき より:

    自由詩の場合、形式がないため、形式、構造、コンセプトなど、作者が自分で縛
    りをつくって書く必要がある。過去の詩集でも、やはりそういった縛りにおいて
    纏められた詩集というのは、詩集として纏められる必然性があったのだろう。川
    柳の場合、穂村さんの言う「そのベタな攻めもあって、全体としてストレートが
    きて、フックがきて、アッパーがきてみたいな、その自在感というのが、トータ
    ルで川柳としての価値観になるのかと、なんとなく思いました。」という発言か
    ら、先に形式があるからこそできる自在性というのが、句集を纏めるにあたって
    のポイントになるのではないかと思いました。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。