『超新撰21』より、清水かおり「相似形」について

邑書林刊の『超新撰21』は、一昨年末に出版されて短詩型界の話題をさらった若手俳人アンソロジー『新撰21』の続編である。『新撰21』が40歳未満に的をしぼった新人発掘、プロモーションの狙いが強かったのに対して、『超新撰21』では、50歳未満にまで年齢制限を引き上げることで、すでに俳壇で認められている実力者も含めた選集となっている。選者の好みが反映されているとはいえ、これからしばらくの俳句ジャンルの先端がどの辺りになるのかを知る上での必読の書であることは間違いない。

注目されるのは、この俳句アンソロジー収載の21人の作家のトリを飾るのが、『バックストローク』『川柳木馬』『Leaf』などで活躍中の川柳作家・清水かおりであることだ。選者のうち「柳俳一如」の観点をもっているらしい筑紫磐井氏による強い推薦があったらしいが、柳俳の別に関わらず、言語表現としての完成度として、俳人20人に見劣りしない強度をもつ100句が揃っていることにまず感嘆した(20人の俳人については、ブログ「海馬」のほうで感想を書かせていただきました。『超新撰21』を読んだ(1)『超新撰21』を読んだ(2))。

しずかにしないか既視の匙だろう        清水かおり

想念の檻 かたちとして桔梗

ジュラルミンケースの中はさざなみ

空は快晴 遥か暴徒の日を映す

荊冠を見ている何もかも少年

まず、100句から5句を抜き出してみた。句の後につけられた小論では、俳人・堺谷真人氏が俳句ジャンルとの関連を探り当てようとしている。戦後の前衛俳句との類似を指摘しながら、生物学から「収斂進化」という概念を借用して、影響関係とは異なった視点からその類似を説明しようと試みている。「収斂進化」とは、まったく系統の異なる生物の種に類似の器官が表れる現象を言うらしい。例としては、昆虫のオケラと哺乳類のモグラが同様の地中生活に適した形態を進化させてきたことなどをあげることができる。ヘタに議論をすれば俳句と川柳はどちらが進んでいるかといった不毛な論議になるところだが、異なったものの類似性を把握するために適切なメタファーが選ばれたと言ってよいだろう。

ただし、俳句ジャンルからの視点という枠を外せば、清水の句と前衛俳句にどの程度の類似があるか、かなり怪しくなるのではなかろうか。私見では、575音字を基調とする点をのぞけば、清水の用いる言語は前衛俳句よりも戦後詩のそれにはるかに近いのではないかと思われる。それは戦後から現在に至るまでの川柳ジャンルが私性と社会性の表現を追求しながら、1970~80年代の時代の流れのなかで、そうした追求がなし崩しになっていったという流れがあり、清水の表現はその流れの先端で容易な方向へと落ち込むのを踏みとどまろうとする位置にある点から来ている(この辺りの経緯は『バックストローク』に石田柊馬氏が連載している「詩性川柳の実質」に詳しい)。時代はずれるが、「収斂進化」を言うなら、清水の句と天沢退二郎の詩にそれを見出しても少しもおかしくはない。

このメタファーを離れて、川柳ジャンル内での展開を振り返ってみたい。大正から昭和初期の新興川柳(田中五呂八や木村半文銭)、第二次大戦後の革新川柳(河野春三、松本芳味など)、そして、清水が属する川柳木馬グループで直接影響を受けたであろう北村泰章・海地大破・古谷恭一といった表現史のラインに清水の句は位置づけられる。そこでは、大ざっぱに言えば、実存主義的な私性をベースに社会意識がからまっているとイメージすればよい。ただし、清水は先行者たちとは大きく違った環境で創作していることに自覚的である。時実新子が私性を社会性から切り離すかたちで極に至らせたが、そこから私性は生活レベルの感情吐露に薄まってしまった。また社会性も、それが拠りかかってきた庶民的共感、あるいは教養主義的なモラルが希薄になっていくなかで、表現を成り立たせる強度を失っていった。こうした表現史と、清水がその先端に立つ強い意識をもっていることを理解しないと、『超新撰21』所収の100句も理解するのが難しいと思われる(のは、こうした表現史をジャンル外にも、あるいはジャンル内にさえ、発信することが不十分であった川柳人にいちばんの問題があるのかも知れない)。

というのも、小論の堺谷氏は「その本領は「思い」よりも「言葉」に重きを置く詩性川柳である。意味を伝達するのではなく、読みを挑発するテクストとして、氏の作品は我々の前に現れるのだ。」と述べているが、この見立ては清水の句の実質とかなりずれてしまっているからだ。確かに、川柳誌『Leaf』の活動などで、清水は「言葉」を重視することを公言しているが、それは「その本領は「思い」よりも「言葉」に重きを置く」ことを意味していない。またそもそも、「詩性川柳」という場合、多くの川柳人がイメージするのは、言葉重視の川柳ではなく、「私性」重視の川柳なのだ。清水は私性や社会性が有効性を減じてゆくなかで、先行の川柳人たちがそうした枠組みにおいて達成したことの核を表現し続けるためにこそ、言葉への傾斜を深めているのである。そこでは、「思い」よりも「言葉」ではありえず、「思い」=「言葉」でなければならないのだ。もちろん、ここで言う「思い」は日常レベルの感情(とその吐露)ではありえない。むしろ、「念」とでも呼ぶべきものだろう。

俳句ジャンルから読みづらい点を想像しながら指摘してみよう。まずは、抽象度の高い表現であること。例えば、タイトルが「相似形」となっているように、100句において繰り返し「形」が直接的にテーマ化されている。関連するテーマとして、「歪み」や「重み」があげられるが、これらのテーマは具体物へと還元されるよりも、句に内包された世界把握として立ちあらわれ、この世にあることへの違和を直接的に表示する。『超新撰21』巻末の座談会で、小澤實氏は「気になった句は〈ジュラルミンケースの中はさざなみ〉。即物的ですが、金属の凸凹を「さざなみ」と言ったことで抒情を感じます。」と述べているが、ここで「ジュラルミンケース」から「さざなみ」への移行は視覚を迂回することで「抒情」へ至るわけではない。「ジュラルミンケース」のもつ硬質感を基調とする全体が「さざなみ」へと直接に接続され、二つの共通性と異質性が鋭く対立することで、ひとつの世界把握が立ち上がるのである。小澤實氏の読みはむしろ、「ゆたんぽのぶりきのなみのあはれかな」という自句への解説なのではなかろうか。

もう一点、外部からの異質なものの到来がテーマとなる句が多く、また、その異質性が同質性に回収、解消されることなく異質なまま残ることをあげておきたい。

現実を食べると海越えてくる蛇        清水かおり

ゆりかご揺らせ知らない神が来る

風景をつなぐ水の亀裂の向こう

「神」というのは直截的過ぎて、少しナイーブな言葉づかいかと思うが、違和としての外界は清水の句では「自然」という風景に薄まって行かず、「亀裂」として居座りつづける。俳人でも『新撰21』の関悦史氏の句などには、異界との緊張が一句に保たれたものも多いので、単純に俳句と川柳のジャンルの違いとは考えられないが、俳句ジャンルが得意とする表現とはとても言えそうにない。こうした表現を俳句的読みに「均す」ことなく読めるかどうか。20人の俳人の句を読んだ後で、清水かおりの句を読むというのは、俳句ジャンルを客観的に見直すための格好のレッスンになるのではなからろうか。

最後に、川柳ジャンルから見た『超新撰21』の俳人たちの印象をひとつ書いておきたい。「私性」の表現に関して、ナイーブな表現者が多いのが意外な気がした。特に、女性作家の演技や誇張も含めた自己開示の傾向は、正直言って古臭い印象をもった。俳句界で少し前に大西泰世氏の川柳がもてはやされたことがあったようだし、昨年は鈴木しづ子の俳句(「夏みかん酸っぱいしいまさら純潔など」)がいまさらながら話題になったような気もする。「私」の表現に関しては、俳句のほうが素朴な表現にまだ驚く向きがまだ残っていそうである。

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