淀川の半分ほどの嘘をつく    樋口由紀子

 大阪の中心を流れる淀川は、お世辞にもキレイな川ではない。近ごろは中之島などで沿岸の整備が進められてはいるが、それでも、広々とした川の風景を楽しみながらのんびり、という気にはさせてくれない。狭くてサエない色の空の下、樹木の少ない大阪の街を殺風景に流れてゆく、それが一般的な淀川のイメージだろう。
 樋口の句の「淀川」と「嘘」は、上で述べた淀川のイメージからすると順接であると言える。双方とも生活の中を流れゆきながら、無視されるまでもないものの深く考えられることがない。たとえ一部が問題とされることはあっても、全体としての「淀川」も「嘘」も一種の必要悪として日々受け流される。比喩関係をあからさまにパラフレーズすると、私たちの嘘は淀川のように生活の中を流れ続けているのだ。
 もちろん、この句はそれだけでは終わらない。淀川と嘘の結びつきの発見はうまい思いつきである(この「うまい思いつき」は川柳の重要な部分であるし、それこそが川柳!という向きもあるだろう)が、しかし、一句のキモは「半分ほどの」にある。この中七が、読者に問い(「淀川の何の半分?」「水量だとしてもどうやって測るの?」「どこまでが淀川なの?」等々)をかき立てて立ち止まらせ、淀川という現実存在がもつ質感と重みを、「嘘をつく」ことについて読者自身が抱く思いに転写するのである。 
 樋口は評論やシンポジウムなどの発言で、川柳における「意味」を強調することがある。私なりに翻訳してみると、樋口が言う「意味」は、言葉があらかじめ背負っているコンテクスト(文脈)であると思う。上の句で言えば、「淀川」や「嘘をつく」という語句が日常において背負っている文脈(自然的、社会的、文芸的なものも、すべて含んで)がある。そのことを最大限に活かしつつ、虚実の膜を跨ぐ一句を作り出すことが、樋口にとっての川柳なのだろう。
 川柳では、「断言」が効果的に用いられることが多い。樋口には特に「断言」の句が多いが、そのスタイルは「意味」、私の言葉で言えば、個々の言葉の文脈をストレートに、日常の豊かさを削ぐことなく提示するのに役立っている。しかしこうして導入された言葉だけでは、川柳にはもちろんならない。表面の「意味」内容は氷山の水面の上に出た部分ようなもので、その内容を裏から支えている水面下の部分の質量こそが味わいになるのだ。
 水面の上に出た部分と、水面下の部分、その結び目をパラフレーズすると上記のようになるのだが、もっとも樋口の句を読むのにこうした作業が意識的に必要になるわけではない。むしろ、「半分ほどの」の部分を読者(あるいは作者自身)の無意識にクサビのように打ち込むことで、現実の質感や重みを一句に感じさせることが、樋口の工夫であり句風であろう。
 ・・・というわけで、「鑑賞」はつねに蛇足である、という真理の、その一例を読んでいただきました。

(湊圭史)

参考: 川柳七句   樋口由紀子

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