ぼくらジャズる翳ある貌をまた加え     岩村憲治

表現において時代というものはあると思う。そして、それが、逆説的だが、時代を超える鍵になることも。川柳史を考えるとき、そのことがすっぽり抜け落ちている気がする。

上の句では、「ぼくら」「ジャズる」「翳ある貌」とすべての語に、1950-60年代あたりの時代の影が色濃く落ちているのを感じる。「ジャズる」という造語、「翳ある貌」をもつという共通点で結ばれた「ぼくら」。ある意味においては、その時期の若者にのみ通じる共感性がこの句の基盤にあることは否定できないだろう。

では、背景の共感性が失われた今、この句に力がないかと言えば、私はそうは思わない。ひとつには、ある時代の雰囲気の凝縮として迫ってくるものがあるからだ(この印象は、句語においては、前半の「ぼくらジャズる」のつんのめったリズム、後半のK音の頭韻のもたらす跳躍の感覚に帰すことができる)。それだけでは、過去の記録的価値ではと思われるかもしれないが、もう一点、表現史において、抒情に足をおき、時代の先端に言葉で切りむすんでいる切迫感(また、充実感)がここにはあるからだ。

この句がもたらす切迫感に満ちた力は、『誹風柳多留』から現代までを拙速にたどり、「川柳とは何か」を単純化して示そうとするたいていの川柳書では一瞥もされないものである。だが、そうした大ざっぱな視点からこぼれ落ちたものを除いては、実は、表現の内実というものはない。また同時に、「実存」などという言葉で表されていたこの時代の雰囲気を、現在の私たちが真似ることも虚しい。こうした表現が過去あり、それとの継続のなかで、しかも新しい状況で創作してゆくという意識が必要だろう。

岩村の句をあと5句引いておく。

転轍手斃し地獄を見にはしる

ピアノに死者ロンロン哭かせ橋を生む

朝のコーヒーから竹馬にのってしまった

めまい来る 鳥語自在な幼児みて

遠く近く死はあり象をただ見てる

全句、『岩村憲治川柳集』(発行人・岩村玲子、2004)より。

(湊圭史)

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