樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む

樋口由紀子『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011)は、川柳について折々に書かれた散文をまとめている。この十年、川柳誌・川柳グループ『MANO』『バックストローク』の主要メンバーとして、現代川柳の新しい動きを生みだしてきた著者の<川柳という楽しみ>についての考えがよく伝わる一冊となっている。一番の読みどころは、第二部、第三部に置かれた『MANO』や『バックストローク』でともに活動してきた柳人たちを取り扱った句集論、作家論だろう。特に、女性柳人7人の個性を見事に描き出す第四部は読みごたえがある。これらの部分については、同書をひもといて下さいと言う他はないだろう。したがって、ここでは樋口が川柳の魅力をひとまずは客観的に語ろうと試みている部分、特に第一部を中心に読んでみたい。
(以下、ちょっとややこしいことを述べるので、そういう文章が苦手なかたは『川柳×薔薇』を直接手にとって読んでみていただきたい。川柳句集やアンソロジーが手に入りにくい現在の状況では、こうした評論集にも、現代の川柳としてこのような句が書かれていると示す役割が負わされているように思う。その意味では、『川柳×薔薇』は、表現に興味がある読み手が抱いている「川柳」のイメージをひっくり返す好句が過剰でない解説をつけてとりあげられており、不案内な読者にとっての現代川柳の手引きとして役立つだろう。)

序として置かれた「はじめに」は、川柳と関わってきた経験を自句をまじえながら語るかたちをとっているが、内容は一種の原理論である。他の部分もふくめて、体系的・総合的とは言えないが、前句付けからきた「題詠」の方向、それ以外の「雑詠」の方向をあわせて、どのように川柳句が生まれてくるのかを感覚的に述べながら、川柳に関わるうえで自らがこだわわるところを「日常」と「意味」という言葉で表している。このうち、「意味」のほうは、

意味というとどうしても意味内容だけに焦点が当たりがちだが、説明や報告をしたり、注釈をつけることとはかぎらない。答えを出したり、つじつまを合わせることだけが意味の役割ではない。

とあるように、この文のなかでの(また『川柳×薔薇』一冊での)定義は分かりにくい。つづけて、

意味を取り出し、捕まえ、ひねり、スムーズに運ばないであっちこっちにぶつかりながら、何とか別の意味にからめとっていく。自分の事情でも状況でもなく、そのときの「私」が今をどう認識し、感じているのかを意味に重きをおいて表現していきたい。意味は鮮明でもつかみどころのない、収斂も着地もしない[原文ママ]。そのようなところにも踏み込んでいきたい。

とあり、「意味」がもう一つのキーワードである「日常」と強くリンクしてイメージされていることは伝わるが、「何とか別の意味に」というあたりになると、ここで語られている事柄を「意味」と表現してよいのかどうか疑問だが、ここで使われている「意味」という言葉(とそれが指し示していると樋口が考えている事態)が、樋口による川柳の創作・受容の梃子になっていることは強く伝わってくる。

 川柳を書くことによって、意味がきゅっきゅっと音をたてる。
 その音を聞きたいために、私は川柳なのだろう。

『川柳×薔薇』では、この「きゅっきゅっ」という音を、他の作者の句や歌を通して聞きとり、表現しようという試みが、4部(プラス、「一句鑑賞」というおまけ?もついている)に分けて行われている。

第一部のテーマは、「私性」VS「言葉の自由度」としてまとめられるだろう。最初の「川柳における「私性」について」は、タイトルには示されていないが、時実新子に師事するところから川柳創作を始めた樋口がその影響をどのように対象化したのかがよく分かる文である(第四部におかれた「最初の場からの宿題」は、よりくだけたエッセイのかたちで同じ経緯を語っている)。樋口は、時実新子が主張した「私性」重視(時実新子自身のことばでは「私の思いを吐く」)が「日常の私」を書くだけで満足する方向を生んだが、それに対して、新子自身の川柳が物語性や演出、「言葉の斡旋」によって新子川柳たりえたのだと指摘する。また、「私性」そのものがもつ多様性を「「私性」の置き場所が違う」以下のような句を引いて例示している。

 十人の男を呑んで九人吐く       時実新子
 現身にほろりと溶ける沈丁花      大西泰世
 レタス裂く窓いっぱいの異人船     加藤久子
 眦の深き奴隷に一礼す         清水かおり
 たすけてくださいと自分を呼びにゆく  佐藤みさ子

第一部では以降、俳句(坪内稔典、竹中宏、池田澄子ら)も引きながら、川柳における「私性」と「言葉の自由度」はどのようなものかをとらえようと試みている。ここでの俳句の扱いがうまく行っているかは難しい問題なのでパスすることとして、川柳代表として名前があげられている中村冨二(「中村冨二の川柳」)の特色としては、「語彙の豊富さ」、「多彩」であること、「複眼」的であることがあげられている。

 冨二の社会認識は複雑で、かつ言葉への信頼、執着があるので、おのずと語彙は豊富になり、よって句姿が大きくなっている。(38)

問題は、この冨二の特色がどうやら川柳そのものの特色というわけではなく、冨二自身の美点としてあげられているところである(「冨二の社会認識は複雑で、かつ言葉への信頼、執着があるので~」ということは、同様の社会認識、言葉への信頼、執着がなければ、川柳に関わっても冨二句のような好句は書けないということだ)。むしろ、こうした冨二の美点は川柳ジャンルに対立するものとして挙げられているようにも読める。

 冨二は川柳の欠点をいやといほど知っていたはずで、ずぶずぶの川柳の沼に足をとられることのあやうさを警戒していただろう。しかし、それ以上にずぶずぶの川柳の沼の魅力も知り尽くしていた。他の文芸ではたどり着けないものが川柳にあると身体的に熟知していたので、そうやすやすと前に進んでいかなかったのだろう。(41)

この部分を読んで、「他の文芸ではたどり着けない」「川柳にある」ものとは何か、のほうが気にかかるのは私だけではないだろう。同様のことは、次に引用する、第一部最後の章「川柳の言葉」の冒頭でも感じる。

川柳は言葉で作る文芸である。しかし、この意識が希薄なのが川柳の特徴でもある。川柳は五七五のなんでもありで、どんな言葉も自由に使えるはずである。しかし、実際はわかりやすい言葉でわかりやすく一句を仕上げることを信条にしてきた。むずかしくなく、考えなくてよく、辞書をひかなくても、意味が百パーセント読み取れて、話の筋が通っているように言葉を選んだ。自分の思っていることをいかに読み手に感動させるかに腐心し、言葉はあくまで意味を伝達するための道具として使われてきた。また、川柳は「言葉」より「思い」を優先した。言葉の意味の一義性がインパクトを発揮し、意味内容にスポットライトが当たり、書いてあるとおりの事柄の「主張」や「思い」が自己表現として評価され、それを言葉が担ってきた。
  しかし、近年「思い」という川柳にとっての絶妙のツールを使わない作品が多く見られるようになった。つまり「思い」より「言葉」に重点が置かれるようんみなってきたのだ。(54)

樋口の考える面白い川柳の方向性を表した文としては不明な点はなく、分かりすぎるほどよく分かる(気がする)。しかし、なぜ「川柳は「言葉」より「思い」を優先し」、「思い」が「川柳にとっての絶妙のツール」になったのか、それが今、「思い」から離れようとしているのだとしたらなぜなのか、に対するヒントはまったく書かれていない。踏み込んで読んでみると、自明の前提とされている「言葉」と「思い」の区別があやういものであるように思える。「書いてあるとおりの事柄の「主張」や「思い」が自己表現として評価され」るとしたら、それは「書いてあるとおり」つまり「言葉」が重視されているってことじゃないか、とまぜっかえすことも出来る。ここで主張されていることは、日常的言語使用VS(虚構も含んだ)創作としての言語使用、つまりは同じ「言葉」のあくまで使い方の違いに過ぎない。最後のまとめの部分を引いてみると、

言葉はモノとして確かな実在をもつのだから、言葉に関わっていれば、言葉の持つ重層性や暗示性に否応なく気づく。どの句も早い段階で図式的に結論づけようとはしていない。個人的な思いや生活を描写し、感情移入しやすい喜怒哀楽の表層をなぞらえることで川柳としてのかたをつけたくないという意識が作品に現れている。言葉は事象に深くアプローチして、日常的な意味を超えたイメージの広がりをもたらし、現実を仕切りなおしている。(57)

とある。「言葉はモノとして確かな実在をもつのだから」という辺りに、樋口に「言葉」理解のあやうさが出ていると思われる。実際には、「言葉はモノとして確かな実在をも」つことはない(現実において、実在のモノと同等、あるいはしばしばそれ以上の効果をもつことがあるのだとしても)。「言葉の持つ重層性や暗示性」は他でもなく、「言葉」がモノとは違う次元をもつことに根ざしている(モノが「重層性や暗示性」をもつように思えることがあるが、これは私たちが言葉やイメージとしてモノを知覚、思考するからである)。樋口の言いたいことは、「言葉はそれを用いていわゆる現実とは異なった世界を構成することも可能である(また、私たちはそこに実在する世界と同じかそれ以上の興味をもって惹かれることもあるのだ)から」という辺りに落ちつくのではないだろうか。結びでは、

川柳でも言葉と言葉の組み合わせやつながりによって、新しい意味世界を作り上げることができる。日常の言葉の意味に従属されることなく、凡庸な意味に縛り付けられないで、意外な出会いを期待しながら、川柳の言葉を更新していきたい。(57)

と書いているように、樋口に散文で述べたいところは、これまでの川柳論の用語でややこしく見えているけれども、最終的にはとてもシンプルなものに落ちつくのである。(ここでも「意味」という言葉がややこしいが)、つまるところは、作品において、言葉で新しい世界を創り出すのが狙いだというところである。ただし、である。樋口が実際に川柳をどう把握しているか、つまり、散文として書きあらわした論ではなく、川柳創作において言葉をどのように扱かっているかはそこまでシンプルなものとは言い難い。「川柳の言葉」に引かれた樋口自身の句を引いてみる。

 ねばねばしているおとうとの楽器     樋口由紀子
 侍はパンツの中にシャツを入れ
 右頬にあるのは東北新幹線
 非常口セロハンテープで止め直す
 淀川の半分ほどの嘘をつく (55)

これらの句が「日常の言葉の意味に従属されることなく、凡庸な意味に縛り付けられないで」と上で書かれていた要件を満たしているかというと微妙である。「ねばねば」「侍」「東北新幹線」「セロハンテープ」「淀川」といった言葉を抜き出してみると、これらの句ではそれらの「日常の言葉の意味」、「凡庸な意味」こそが強調されているのではないかと思われる。では、これらの句は樋口にとって失敗作なのか、というと、それはありえないだろう。これらの句ではむしろ、「日常」や「凡庸さ」こそが重しになることで、「意外な出会い」に見えて陳腐な言葉遊びを免れている。創作家として、読み手としての樋口はそのことを、(中村冨二について述べた樋口自身の言葉を使えば)「身体的に熟知してい」るのだ。序文である「はじめに」を、つまり、『川柳×薔薇』一冊を、樋口は

 なぜ川柳なのだろうと思う。

という呟やきから始めている。樋口の文章はこの、なぜ川柳か、という問いの答えには明示的にはついにたどりついていない。しかし、その答えと一冊を通してすれ違いつづけることで、読者にそれを暗示することに成功しているのだと言えるかもしれない。

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