雑記帳

このページでは、コメント欄をつかって思いつきを書いていきます。投稿などあってもいいかな、なんて。

短詩作品・鑑賞・評論の投稿は編集 みなと まで。掲載の判断はわがままで、かつのんびりですので、その点ご了承ください。


20 Responses to 雑記帳

  1. みなと より:

    個人的な行事がありまして、しばらくネット更新をお休みしていましたが、ぼちぼち再会しようかと考えております。

    と、思ったら、「海馬」ブログのほうが不調でつながりません・・・。

    ま、あせらず、のんびりと。

  2. みなと より:

    最近、久しぶりに短歌をまとめて読んでいます。

    いちばん面白いなと思ったのは、渡辺松男さんの歌。
    数年前に短歌にハマったときには
    なぜかぜんぜん視界に入らなかったのが不思議。
    歌集が手に入りにくいのが残念。

    若手では、光森裕樹『鈴を産むひばり』(港の人)、
    黒瀬珂瀾『空庭』(本阿弥書店)など入手。

    内側よりとびらをたたく音のして百葉箱をながく怖れき   光森裕樹

    中吊りのない車内です。潮風です。二輛後ろに母が見えます

    夜の底に開くみづうみ夜の底へ雪のひとひら沈めてしづか  黒瀬珂瀾

    対岸ゆ眠りのなかへ訪ねくる それは私のごうすとならん/だらう

    いやあ、うまいし、いいですね。短歌読んでると、私もつい
    短歌を書いてしまったりしますが、くらべるとぜんぜんアキマセン・・・。

  3. みなと より:

    吉澤さま

    全郎さんの「河童」の句、補足ありがとうございます。

    たしかにずいぶん違うアプローチになってますね。
    横書きのほうが自由なのか、
    この場のほうが遊びやすかったのか。

    じっくり比べてみたいところです。

  4. 吉澤久良 より:

    雑記帳への書き込みでもいいんですよね。
    全郎さんの以前の「河童」の句は、もちろん湊さんは意識されたでしょうが、S/Cの読者のために紹介しておきたいと思います。
    この二つの「河童」作品群を比較するのはなかなか面白いと思うのですが…。

    水面をゆがむ光と河童文学
    河童門さげれば頭だとわかる
    河童屋の猛犬注意の札二色
    河童雲はかされた靴は月の形
    河童火の二十四時間生中継
    河童闇となりの舟も空でした
    河童暦くやくやていの語り草

    「バックストローク」20号(2007年10月)の全郎さんの句です。こうしてみると、全郎さんの句も変わってきているなあと感じます

  5. みなと より:

    久しぶりに「作品」に記事を追加しました。
    兵頭全郎さんの「河童horizontal」。
    全郎さんは群作を、全体の見え方も含めて追求することでは、現代川柳でも随一。

    この群作では横書きであることを意識的に用いて新しい、
    と同時に、近現代川柳で「河童」の群作といえば
    川上三太郎。これは全郎流の近代川柳への挑戦状と
    言ってよいのではないでしょうか(いや、言い過ぎか・・・)。

    三太郎の河童群作も7句からなっております。2句目だけが引かれることが多いですけれど。ここでは全句引用させていただきますと、

     河童満月・七句                 川上三太郎
    新年を蒼蒼として河童ゐる

    河童起ちあがると青い雫する

    この河童よい河童で肱枕でころり

    河童月へ肢より長い手で踊り

    満月に河童安心して流涕

    河童群月に齊唱、だが──だがしづかである

    人間に似てくるを哭く老河童

    「河童horizontal」と比べて読んでみてください。

  6. みなと より:

    石部明さんのブログと小池正博さんの週刊「川柳時評」に、「『バックストローク』50句選&鑑賞」の紹介を書いていただいた。小池さんには「川柳・今年の10大ニュース」の一つに入れていただいたようで恐縮のかぎりです。
    「これがこの川柳人を代表する句だろうか?と首をかしげる部分も湊の選にはあるが」との指摘も入っているが、作家論はできるだけ外して選をしたし、数人については故意にズラした選をしてみたので、これはそうだろうなと思う。作家論というかたちになるとかなり選が変わるでしょうね。

  7. みなと より:

    ホームページの外見を一新しました。明るい雰囲気になって、前より見やすくなったかと思います。前のシブいのも気にいってたのですが、替えてみるとこっちのほうがいいかも、と。

  8. みなと より:

    昨日、記事を書いてからトップページのレイアウトがおかしくなってしまった。「投稿」がなぜか大きな文字で上のほうに登場してしまっている。いじった憶えはないけどなあ。ちょっと調べてみたが原因不明。あんまり考えるとしんどそうなので、気に食わないけれど、しばらく放っておきます。明日になったら勝手に直ってないかな?(それも何だか不安ですが)。

  9. みなと より:

    ブログもこちらも更新が少なく日々が過ぎていきます。頭のなかがまとまっていない感じ、です。
    しばらくぶりに「鑑賞」を更新。根岸川柳の句について。川柳に関するリクツもあるのですが、それより先に、こんな面白い作家がいた(いる)よ、とアピールするのが、外に向けてはいちばん大事な気がするのです。「誰でも書けます」みたいなフレーズで参加者を増やそう、みたいな意見が川柳の場合に多い気がしますが、「誰でも書けるのか、じゃあいいです、結構です」って普通の人の反応じゃないか。特に、年齢が若いかどうかは別にして、これからやる気のある層に対しては、疑問のでるアプローチでしょう?
    根岸川柳などは、どのジャンルの人でも面白い!って思うはずなんですね。岸本水府などにしても「六大家」とか歴史にしてしまわずに、いい句をうまく抜いて紹介しつづければいいのに。面白いものを書く人がこんなにいるんだと思ったら、それにチャレンジしようと・・・。あら、愚痴っぽくなりましたね。いかん、いかん。

  10. みなと より:

    最近、将棋に興味をもっていろいろ読んだりしているのですが、なんで興味をもったのか、その辺りがようやくピンと来ました。簡単にいうと、将棋の一局の流れと連句一巻の展開に共通した感触があるのです。双方ともあいさつ的なゆったりした開始をして、それが落ち着くと中盤のめまぐるしい攻守交代に、最後はとどまることなく一気の終わりへ・・・と、いわゆる「序破急」のかたちが基本形。それと、一手(一句)進むごとに進む道が狭くなってゆく感覚、それがときおりひと息に突破される瞬間がある・・・。増川宏一『碁打ち・将棋指しの誕生』(平凡社ライブラリー)を読むと、中世から近世にかけて、連歌/連句と碁・将棋が隣接して展開していることがよく分かるので、歴史的にも意外に(?)近しいということでしょう。連句の平句につながる川柳は、一句でみると「破」にあたると思いますが、句会の披講の際には「序破急」的な流れを感じることがよくあります。選者をさせてもらうときに、「基本的にはよい句が後にくるように、でも最初の句は(あいさつ的な)よい句を」と聞いた気がしますが、「序破急」をイメージすると全体にダレない選ができるかな、などと考えています。

  11. みなと より:

    「俳句樹-はいくじゅ- 「海程」「豈」合同ブログ」http://haiku-tree.blogspot.com/ 第二号、えらいヴォリュームです。のんびりと読んでいますが、ぜんぶ読むかなあ・・・。筑紫磐井さんの記事「長編・「結社の時代」とは何であったのか」が面白い。総合誌の編集長にスポットを当てて、「結社の時代」というキャッチフレーズから、入門・上達法特集へ、バブル(俳句、経済両面)の波に乗って(流されてゆく)展開がよく分かる。今月号の『現代詩手帖』を読んでいると、80年代に一般読者を狙って創刊された詩の雑誌『鳩よ!』の初期の編集長による手記が載っていて、そちらもとても面白い。80年代バブル期は、戦前・戦中の時期と別の意味で(でも共通している部分もある)、日本詩歌の一種の空白の時間かな。でも、この空白は現在の言語表現のひとつの前提になっているのでは、とも思いますね。

  12. みなと より:

     小池正博さんが週刊「川柳時評」(右上のリンクからどうぞ)で、「現代川柳とは何か?―「なかはられいこと川柳の現在」を読む―」をとりあげてくださっています。ごちゃごちゃと長く書いてしまったものを、すっきりとまとめてくさっている。
     小池さんの記事には、「湊自身の考え」というのが何度か出てきますが、拙稿ではまだ私自身の考えを明示的に押し出すまでいっていないかなあ。短歌人からのボールを打ち返してみるとどうなるか、というのが、あの文での姿勢ですね。とはいえ、私は「賢明な態度」をとる立場でもないと思うので、「川柳性」を明示してやろう、という野心があるのも確か。
     私なりの「川柳性」、今のところ漠然と、様々な文脈、言い換えれば、フーコーのいう言説(ディスクール)の、切断と接合による脱構築、といったあたりを起点に、と考えているのですが、これだと何のことだか分りませんね(笑)。鑑賞や評論をしばらく続けていく中で、まとまってくればいいか、と。もちろん、考えているうちにアイデア自体が解消してしまう、というのもよくあることですけど・・・。

  13. みなと より:

     このサイトでは作家名につけるデータは、基本的に、ジャンル名だけに絞っています。短詩型のサイトでも他の媒体でも、所属結社やグループなどを作家名の後に付けることが多いですが、ここでは出来るだけそうしたバックグラウンド抜きで作品だけを読んでもらおうという趣旨です。(web上ですので、検索すればすぐに何でも分かる、のですがね。とりあえず。)
     結社名などがついていると安心する向きも多いかなと思います。でも、それは作品を読まずに、なんとなく納得できるからであって、詰まるところは、作品そのものと向かい合うことを回避しているのでは。ちゃんと読む人は関係なく読んでいるとは思うのですが、あの結社(グループ)の作品は云々、という言い方をよく耳にするので、ここにでも書いておく意味はあるか、と。
     もう一点指摘したいのは、所属団体からの読みというのは、そのジャンルに属していない人間にとっては、さっぱり意味不明だということ。このサイトは川柳(と他の短詩)の面白い部分には、現代の批評の先端で切ってもまだ面白みの残る優れたものがある、という意図でやってますので(そうでなければ、わざわざサイトを作りませんので)、ひょっこりこのサイトに行き当たった人が、こんなオモロいもんがあるのか!と思ってくれるのがベスト、だと考えているのです。ハイ。

  14. みなと より:

     このサイト、wordpress.com というシステムを使っているのですが、高度なことができる、その割に単純なことが引っ掛かる、というなかなか厄介なシロモノです。コメントを書いていただいても反映されない、という事例もあるようで、そういう場合がありましたら、お知らせいただくとありがたいです。
     「文字が小さい!」との苦情もありそうです。こちらはwordpressが英語メインのサービスなこともあって、デザイン的に日本語を多きく表示するとちょっとカッコ悪い、との純粋にファッション的な理由によるものです。お目が疲れた場合は、[ Shift ] と [ + ]キー、あるいは[ Ctrl ] と [ + ]を同時に押していただければ、ブラウザの機能で文字が拡大されるはずです。

  15. みなと より:

    昨日、時事川柳のことについて書いて、本日、久留島さんから時事俳句(とは久留島さんは言ってないけど)が届きました。8句とも、ネット関連の事象を季語と取り合わせて書かれている。季語が「俳句的世界」とは言わないまでも、現実とは別の作品内世界を立ち上げるので、ある意味で、そういう仕掛けがない川柳よりイージーかも知れません。ただし、危険性も大で、さらに寿命は短いか。まあ、ここまでやるとしたら、その辺りは作者の計算の内でしょう。ともあれ、季語にせよ、キーワードにせよ、俳句はそうしたもともと表現価値を内蔵した言葉を軸とするジャンル、と考えられそう。が、まあ、この辺りは異見もありか。
    でひるがえって、時事川柳も含めた川柳ジャンルが一句を作品化するのは、どういう仕掛けによってか? もっとも一つや二つではなくそれ以上の様々な仕掛けがあってもよいのですが、言語観や当然にそれに付随するはずの世界観に基づいて分析的に考えられないものか。このサイトを立ち上げながら、批評・理論面を追求しようと希望していたのですが、なかなか考えが進みません。アイデアが頭の中で、まだピースで散らばっている状態・・・。

  16. みなと より:

    この日曜日は時事川柳の会にお誘いをいただいていたのですが、あんまり句会や詩のイベントが連発なのでさすがに自粛。の割には、仕事が進んでないのが・・・、なんですが。で、とりあえず作ってみた時事川柳を。

    トロイカか牛裂きなのか分からない

    第三のビールの泡もすぐ消えて

    つぶやいたあとでシマッタとひとり

    うーむ、二句目はぜったい誰か他の人が書いているだろう、話題としては古いし(だとしたら、ごめんなさい!)。ここから一歩踏み込んで複雑化するか、もっと表面的な情報を表面的に組み合わせつつ衝撃度をあげてみるか、と考えますが、そうなると時事川柳とは別ものになりそう。それともこれも、あらかじめもっている時事川柳のイメージにとらわれているのか。
    作っていて思ったんですが、現在の時事川柳というのは、新聞というメディアのスピードと少し前までの普及率を背景として出来たものではないか、と。ネット・メディアでしかニュースに触れなくなると(私はだいたいそうですが)、句作のための情報の質から違ってくる気がする。というのが、現在の感想。メディアと文芸の関係は文学研究ではすでに陳腐になり始めた視点ではありますが・・・。

  17. みなと より:

    久留島さま
    コメントありがとうございます。確かに〈短さ〉の意識はなかったわけではないでしょうね。特に、俳諧では雅俗の別だけではなく、先行文化への意識的・無意識的の批評が〈短さ〉から生まれていたと思います。「「短詩型」と呼ばれて納得するような素地はもともとあった」という点、納得。
    それが、明治以降の西洋文化の総体的な導入により、〈異物〉とも言える抵抗にあって、日本語表現の<短さ>が問題として前景に出てくる、という感じでしょうか。和歌は中国大陸からの文化の〈異物〉を取り入れた後に練り上げられたある意味、〈十分〉な表現として意識されていたと思いますが、そこに処理できないものとして、西洋由来の文化が衝突してくる。
    「第二芸術」問題にまでつながる、というか、戦後の「第二芸術」論にとどまらないで、ここまで遡って考えないと、批評としては話にならないでしょうね。そう考えると、桑原なんとかの名前などもう出す必要はないというか。

  18. 久留島 より:

    こんにちは。 新しい活動、興味深い提起。
    今日、たまたま人に誘われてお能を見に行ったのですが、「巻絹」という曲で、和歌の徳を説いて「言葉少なくして理を含む」という表現が出てきました。また、長歌に対する短歌、和歌に対する俳句、はそれぞれ短さを意識して入るんでしょうね。
    だからといって別に「短詩型」概念形成が遡るというわけではなく、また「短詩型」概念がいつ頃成立したのかは知りませんが、「短詩型」と呼ばれて納得するような素地はもともとあったのかも。

    と、たまたま今日聞いたことと、今日開いたことがつながった気がしましたので。
    またお邪魔しますm(_ _)m

  19. みなと より:

    短詩型、というけれど、この「短」というのは、何に対して短いのか?と考えたりします。ヨーロッパ型の poetry を移入する前は、ご先祖さまは和歌や発句や川柳・狂句を「短いなー」と思いながら詠んでいただろうか、と。漢詩との対比はあったとは思いますが、それは「唐歌(からうた)」と「和歌(やまとうた)」の違いであって、ジャンルの(起源の)違いでしかなかっただろう。やはり、ヨーロッパの poetry 、またそれを含むヨーロッパ型文化の移入の圧力があって、「短い」、「57577や575では言い切れない」という意識が出てきたのではないか。近代以降の短詩はこの意識を梃子にして、「短さ」という条件を逆手にポジティヴに用いることを意識的、無意識的に目指したのではないか。ただ最近、短詩型を書く人たちの間でも、この「短さ」「言い切れなさ」の意識が減ってきている感じがするのです。なぜかな。

  20. みなと より:

    「行」の概念について。俳句や川柳や短歌は一行の詩だと言われるけれど、正確に言えば、「行」の概念がない詩だと思う。漢詩にしても、書にされたものを見ると脚韻のところで切れておらず、つまり五言絶句だとしても五字で改行されるという決まりはない。五字はその場合、「句」ではあっても「行」ではない。日本の伝統詩(発句、短歌、川柳、漢詩)においては、「行」の概念は存在せず、「句」の概念しかないわけだ。だからどう、ってわけじゃないんですけどね。

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